よみがえれ!有明海訴訟仮処分決定

堀 良一(日本湿地ネットワーク運営委員/弁護士)

東京・霞ヶ関の農水省前で行われた集会で、仮処分勝訴の垂れ幕を掲げる原告・弁護団(8月26日)
 「勝訴」「工事止まる」など4本の幕を誇らしげに掲げた若い弁護士が勢いよく佐賀地裁の玄関を飛び出してきたとき、正門前に集まった漁民、支援者はいっせいに「うぉーっ」と言葉にならないうめき声のような歓声をあげ、顔をくしゃくしゃにして手をたたきながら、全身で喜びを表した。
 農水省に勝った。いままで何を言っても聞く耳を持たなかったあの農水省が「イサカン」の工事を中断する。「イサカン」に踏みにじられ、生活苦にあえぎ、将来の展望を失いかけていた漁民にとって、佐賀地裁が諫早湾干拓工事の続行禁止の仮処分命令を出した8月26日は、自分たちの正しさが証明され、久しぶりに漁民としての誇りを取り戻した1日となった。

 有明海は豊饒の海である。
 豊かな干潟が広がる諫早湾は、その豊饒の海・有明海を支える要ともいえる自然環境であり、有明海漁業における漁業資源を涵養し、漁場環境を維持する上で欠くことのできない自然の恵みであった。この自然の恵みは、有明海漁業を基礎とする地域経済を支え、独特の地域文化をはぐくんできた。干潟や浅海域などの湿地環境を保全しようとする地球環境保全の国際的な潮流の中にあっては、我が国を代表する重要な自然環境として内外の注目を集めてきた。これを保全することは、有明海漁業と地域経済・地域文化を守る上で不可欠であり、地球環境保全の取組におけるわが国の国際的責務でもある。
 諫早湾干拓事業は、こうした重要な自然環境を破壊しながら進められた。しかも、その事業たるや、計画自体、なんらの必要性・合理性が見いだせないばかりか、費用対効果すら、いまや事業者の国自身が投資した費用を上回る効果を生み出さないと自認せざるをえない状況にあり、我が国における無駄な公共事業の典型ともいえるものである。

 この干拓事業は、着工早々から諫早湾内における漁業に深刻な打撃を与えてきた。とりわけ1997年4月の潮受堤防締切後は、有明海の豊饒さを支えてきた海洋構造への深刻な悪影響が顕在化し、かつてなかった赤潮の頻発・大規模化など、有明海異変と呼ばれる有明海の広範囲に及ぶ環境悪化が顕著となった。
 そのため漁場環境は一変した。有明海の魚介類は激減し、海苔養殖業は毎年のように不作に見舞われている。廃業する漁民は加速度的に増加しており、有明海漁業そのものが存亡の危機に立たされている。漁民の中からは自殺者が次々に現れ、借金苦から母親と心中を図った痛ましい承諾殺人事件の悲劇までも生んでいる。いまや、この干拓事業がもたらした漁業被害は、極限にまで達しようとしている。

 これまで本件干拓事業と有明海異変・漁業被害の関係をかたくなに否定し続けてきた国の言い逃れは、今回の仮処分決定によって明確に否定された。
 工事続行禁止を命じるこの仮処分決定の内容は次のようなものである。
 第1に、漁業行使権に基づく妨害排除請求権を被保全権利として認めた。
 第2に、有明海漁民の被害を丁寧に分析し、とりわけノリ養殖業について「将来の経済生活の面で、極めて重大で深刻な影響」と指摘した。
 第3に、因果関係については、農水省がノリ養殖の歴史的な不作のなかで設置せざるをえなかったノリ第三者委員会が、諫早湾干拓事業との関連が想定されるとして、それを検証するための開門調査を提言したことを重視し、ノリ第三者委員会が当時の資料と英知を結集して事業と被害との関連性を肯定したこと、その後の研究や調査、漁民の実体験によってそれが裏付けられていること、農水省がその結論を尊重すると言いながら、いざ提言が出るとみずからの設置した第三者委員会であるにもかかわらず、その提言を受け入れようとしなかった経緯などを丁寧に跡づけながら、開門調査が行われなかったことによる不利益を漁民側に負わせるべきでないとして、法的因果関係としての蓋然性を認定している。特に、漁民の実体験を評価したこと、開門調査が行われなかったことの結果を漁民側に不利益に扱ってはならないとして立証の責任を事実上軽減していることなどは特筆すべきであろう。
 第4に、保全の必要性については、「本件事業による債権者らの損害を避けるためには、既に完成した部分及び現に工事進行中ないし工事予定の部分を含めた本件事業全体を様々な点から精緻に再検討し、その必要に応じた修正を施すことが肝要となる」として、そのためには事業の凍結が重要であると述べ、有明海再生の必要性を保全の必要性の中心に据えている。
 実は、漁民の被害の深刻さとみずからの設置したノリ第三者委員会の提言をも無視する農水省の暴走を前面に打ち出し、法的な因果関係としてはノリ第三者委員会の示した蓋然性のレベルで十分であり、なによりも求められている有明海再生のために事業を止めなければならないという論理は、漁民側が主張した論理そのものである。
 その意味で、この仮処分は漁民側の主張をほぼ全面的に受け入れたと評価することができる。
仮処分命令で工事が差し止められた諌早湾の干拓地。中央のラインは建設途中の前面堤防(11月19日撮影)

 この仮処分は、2002年11月26日に本訴と共に佐賀地裁に提起された。当時、農水省は、ノリ第三者委員会の提言を最終的に無視し、座り込みを続ける漁民の活動が鈍った8月の盆休み期間中に突然最終の内部堤防工事を再開し、いよいよ運動側は窮地に追い込まれようとしていた。
 そのようななかで、仮処分は1日も早く結論を勝ち取らなければならず、弁護団は、ノリ第三者委員会の成果でもって立証は十分とする立場から、訴訟の冒頭にこれをまとめた膨大な書面を提出し、これを事実上の最終準備書面として裁判所と農水省に対応を迫った。また、本訴と同時進行の法廷では決定までに漁民を中心にのべ34名の当事者と代理人が意見陳述を行い、もっぱら被害の深刻さと農水省の目に余る暴走ぶり、有明海再生が急務であることを訴えた。その結果、仮処分は提訴後1年が経過した2003年12月に事実上結審し、その後、農水省の抵抗などで当初の予想からずれこんだものの、ようやく今回の仮処分決定となった。

 いま、この仮処分を機に、状況は大きく転換しようとしている。佐賀県議会と市議会は先日、相次いで仮処分決定の支持決議を採択し、その動きは周辺市町村へと波及しようとしている。
 昨年、公害等調整委員会に申し立てた干拓事業と漁業被害の因果関係の存在をもとめる原因裁定もまもなく専門家委員の意見書が提出され、裁定の結論が出ようとしている。
 ここでさらに追い打ちをかけ、有明海再生へと状況を大きく転換する闘いは、いよいよ正念場にさしかかろうとしている。

(JAWAN通信 No.79 2004年12月10日発行から転載)