釧路湿原は蘇るか
―釧路湿原全体構想案を検証する―

杉沢拓男(NPO法人トラストサルン釧路事務局長)

1.自然再生事業の開始

 釧路湿原で自然再生法(2003年1月施行)による自然再生事業が始まっています。「過去に損なわれた生態系・自然を取り戻す」(自然再生推進法)ことを目的に始まったこの事業、釧路湿原での取り組みは、流域を包括する国内初めての本格的な試みとされています。
 自然再生事業は、実施の意思のある者が「自然再生協議会」を組織し、協議会が自然再生の基本的原則と方向を示す「全体構想」を作り本格化します。
 釧路湿原では全体構想(全文6章)が2005年3月末に決まり、現在は、実施計画の作成・協議が進められています。
 NPO法人トラストサルン釧路は、自然再生協議会の肯定的部分を発展させる立場で参加し、全体構想作りにも加わりました。

荒廃している釧路湿原を囲む山。後方の黒い樹はエゾシカの食害で枯れ死している。

2.釧路湿原の診断書、「全体構想」の諸問題

 自然再生事業の全体構想は、自然環境の病(破壊)の原因を正しく診断し、治療方針を決め「自然破壊という病で死にかけている自然を治し、自ら蘇えるようにする」ことを目指します。出来上がった釧路湿原自然再生事業の「全体構想」は自然再生の諸原則に沿い、自然再生の方向を正しく診断し、病を治す方向を示したのか振り返ってみました。

(1)釧路湿原の病は深刻
 釧路湿原の病は、湿地そのものの開発による破壊、湿原の水源となる集水域の森林破壊、河川改修、開発地から湿原への土砂流入と堆積、水質の悪化、観光開発などによる生態系の荒廃と劣化などが原因です。満身創痍ともいえる現状のなかで自然再生が始まりました。釧路湿原ではそれでも「野生のよりどころ」としての機能が残り、水を介し人々に数多くの恩恵も与えています。

(2)診断と治療の原則を評価
 釧路湿原の全体構想で、湿原の病を診断する見方と治療の考え方を示す原則を定めました。
 @生態系としてつながる流域を自然再生の対象とする「流域視点の原則」
 A残っている自然の保全を優先し、自然の復元力を支え自律的回復を目指す「受動的再生の原則」
 B科学的知見による現状の把握
 C検証しつつ事業の見直しを含め進める「順応的管理の原則」
 D 多様性のある自然の保全と復元及び機能の回復
 など10項目が明記され、不足はありますが基本的に評価できる内容です。

(3)釧路湿原流域の範囲に誤診
 全体構想は、ラムサール条約など国際的な自然再生の基準に沿い、肯定できる原則を示しています。しかし、その具体的方向となると再生事業の思惑の違いが表面化し、原則と矛盾する見解も示されました。
 その一つに自然再生の対象となる範囲を決める議論の中で、流域の範囲があいまいになりました。自然再生では対象となる地域を集水域単位で考えることを「流域視点の原則」としました。
 釧路湿原は現在、阿寒川水系と釧路川水系の二つの水系で成り立っている湿原です。大正時代まで阿寒川は釧路川の支流であり、釧路湿原はこの流域で生態系が作られました。「釧路湿原」の自然再生は「流域視点の原則」からするとこの二つの河川流域が自然再生の対象範囲となります。
 しかし、全体構想では、自然再生の対象範囲を釧路川水系の集水域内に止め、阿寒川水系を補足的なものとして扱いました。阿寒川周辺の釧路湿原南西部地域は、国内で釧路湿原でしか生息が確認されていないキタサンショウオの発見・生息地で、タンチョウの営巣地もあり、釧路湿原で最も自然破壊が進んだ地域で、保全と再生が必要な湿原です。釧路湿原で自然破壊の症状の重い地域を診察対象からはずし、自然再生の患部を見落とした明らかな誤診といえます。
 阿寒川流域を自然再生の対象範囲としなかったのは、開発が進み「釧路湿原と呼ぶ人は少ない」、範囲が「広すぎる」などとする専門家の意見と再生の範囲を国立公園内にとどめ、流域の農業・林業地域などを自然再生の範囲から除外し、開発行為を容認させたい開発サイドの意見が反映されています(循環の視点からすると農業・林業地域を除く自然再生はありえない)。
 阿寒川流域の釧路湿原では、数年前、湿原を横断する広域農道が建設され、高速道路の工事も進み、インターチェンジも2箇所で予定されています。釧路湿原地域では最も不動産価値の高い土地(湿原)になります。

(4)釧路湿原の診断・治療に第三者機関が必要
 釧路湿原自然再生協議会は、釧路湿原の病を診断し治療する医療チームという役割を担います。治療方針を決めるには「釧路湿原という患者がなぜ手術が必要なほどの病気になったのか」その原因を特定し、取り除くことを目標に治療方針を決めなくてはなりません。現状では、釧路湿原が病気になった原因の確定診断がないまま手術が始まりだしたといえます。
 釧路湿原が抱える諸問題に対応するため各分野の医療スタッフ(協議会委員)が6委員会に別れ、実施者から示された自然再生の治療方針などを検討し「相互に関連をもち」取り組み、検証することになっています。
 6委員会は次のようになっています。
 1.湿原生態系と稀少野生生物生息環境の保全再生(湿原再生小委員会)
 2.河川環境の保全・再生(旧川復元小委員会)
 3.湿原・河川と連続した丘陵地の森林の保全・再生(森林再生小委員会)
 4.水循環・物質循環の再生(水循環小委員会)
 5.湿原・河川・湖沼への土砂流入の抑制(土砂流入小委員会)
 6.持続的な利用と環境教育の促進(再生普及小委員会)
 *( )内は現在設置されている小委員会名。
 6つの分野は釧路湿原の保全・再生を図る基本分野が網羅されていると思われます。しかし、委員会では各分野を個別に単独で取り扱い、「川を見て森を見ない」「湿原を見て川を見ない」まま事業が始まり、実施者の意向に沿った工事の技術論が中心の議論が進んでいると思えます。
 個別の委員会を結び検証するのが再生協議会の全体会議ともされています。しかし、全体協議会には自然再生の温度差が大きい100人を超える構成員が参加し、広大な流域で個別に進められる事業を一同に会して有機的に結びつけ、統括的に議論し、再生の方向が検討できるのか疑問です。
 各分野における自然再生の診断と治療の方針は実質的に小委員会で協議され、実施されていくことになります。これまでの小委員会では市民の能力では理解できない専門用語が飛び交う議論もあり、専門家の議論と工事に精通した実施者(行政)のペースで事態が進んでいるのが実態です。6つの分野を有機的に結び統括・検証できる公開を原則とした「第三者機関」を作ることも必要になっています。

(5)全体構想が示した診断と治療方針の不安
 1)損なわれた生態系を取り戻せるか
 釧路湿原流域では、過去と現在の湿地を示す基礎データもまだ揃っていなく湿地の消滅がどのように進んだのかも明確になっていません。森林破壊・土砂排出源の現況、人工林と自然林の質量、中小河川も含む河川改修の実態など自然再生の視点から見た流域の荒廃と劣化の姿が不明です。これらのことから、全体構想で釧路湿原の病を明確に出来なかったことも否めません。各小委員会はそれぞれの分野で「過去に損なわれた生態系を取り戻す」ための全体像と具体的方向を明示することが求められ、一部でその努力も始まっています。
 全体構想では「残された自然の保全を優先」することを明記しています。しかし、釧路湿原を埋め立てる高速道路工事、湿地に蘇ってきている農地を再開発する農地防災事業などの自然破壊を指摘せずタブーとなっていることから、自然再生事業が作っては壊す「賽の河原」事業となりかねない様相もあります。
 「残された自然の保全を優先」する自然再生事業では、自然再生と矛盾する開発事業を見直すことも仕事です。自然が自ら蘇る自然治癒力を阻害する高速道路、農地防災事業などの大型公共土木事業の見直しという「食生活の改善」も求めなくては治療にはならないといえます。再生協議会とその委員会が問われます。
 自然再生事業では、釧路湿原流域を切り開いた医師がメスを握り、再手術することになります。これまでの開発行為は医師でもある行政が進めてきました。反省と今後の手術を検証する仕組みが再生事業にあったとしても、患者(釧路湿原)と家族(国民)の不安は尽きないものがあります。
 2)旧川復元という自然再生の事例
 自然再生事業として始まった、釧路川の直線化部分の一部を旧川に戻し、蛇行化する「旧川復元」工事も、上下流域の生態系についての基礎的なデータがないまま旧川に水を入れる工事(手術)手法の議論が進んでいます。旧川復元の現場となる釧路川は、その現場上流も河川改修され昔の自然蛇行を失っています。流域では森林も失い、支流の河川改修も進められています。その下流で旧川を掘り、川幅を広げ、水を流す「復元化」工事で昔の自然蛇行が取り戻せるのか、上流域が昔の生態系を失っている今、疑問が広がります。
 川に自然を取り戻す蛇行化は賛成できます。しかし、現在の釧路川の現状を見るなら、旧川に水を入れることを前提とした河川の蛇行化は「残された自然の保全を優先し、出来るだけ自然の復元力にゆだねて自律的な自然の回復を目指す」(受動的再生の原則)ことになるのでしょうか。
 旧川は河跡湖として希少生物の生息など湿地の多様な生態系の一部となっています。この河川跡を掘削することは「残された自然の破壊」になります。さらに川は水の動きで自ら蛇行することから、改修され直線化した川の中では自ら蛇行し「復元」が始まっています。「自然の復元力にゆだね、自律的な回復」を目指すなら、現状の川の中で「自律的な蛇行を阻害している原因を取り除き、自然の復元力を手助けし、川の力で蛇行を蘇らせる」ことが「受動的再生」とはいえないのか、旧川復元だけが選択肢ではないといえます。
 3)農地防災事業に潜む疑問
 釧路湿原流域では、湿地に戻った農地を再開発する「農地防災事業」が各所で進められています。工事で「湿原に土砂が出る」ので開発地に「沈砂地」を作る事業を自然再生事業で実施する提案が示されています。湿地に戻り出した場所は蘇らせ、土砂を出す工事は止めることが自然再生事業です。自然再生事業が従来型公共土木事業の延長のために利用されているという疑問も膨らんできます。
 釧路湿原流域は広大な酪農業地帯の中にあり、「規模拡大・開発」農政と自然を基盤とする農業の板ばさみで農家は苦しんでいます。湿地の農地化もその延長にあり、1日250万人分の量に匹敵するとされる家畜糞尿の処理などは生態系と農家の許容能力を超えています。自然の循環を基盤とした農業への質的転換も必要で、自然再生事業はこれらも課題になっています。

地域産の樹木苗を作る(生物多様性)圃場の整備作業。


3.問われる「市民・住民」の主体的参加と自然再生事業

 生態系の中では、様々な人々が暮らし、自然の利用者や地権者として利害関係を持っています。そのため、生態系の保全は「流域に暮らす人や関わる人々が鍵を握る」とされ、自然再生事業では、自然との関わりが深い「市民・住民の参加」が柱になります。生態系の利害関係者は自然を私的に利用するだけでなく、自然との関係を社会的存在・享有するものとして捉え、保全管理に参加することも必要です。しかし、釧路湿原の再生事業は、「官主導」で始まりました。自主的で主体的な市民活動を基礎とした「民主導」の自然再生のあり方も釧路湿原で問われています。

4.終わりに

 市民参加による自然再生事業は、手作りの小規模のものから内容によっては、大規模な事業の展開など様々です。「生態系の鍵を握る」市民・住民の参加と行政機関などとの協働が無ければ自然再生事業の本質的展開は困難です。
 生態系の中で暮らす市民・住民も直接的、間接的に自然再生事業を展開する能力を持ち、行政は市民が提案・実施する自主的な再生事業をバックアップするという役割分担の中で「協働」が進むことが必要です。しかし、釧路湿原自然再生事業では市民団体にその事業展開を協働によって全面的に委ねるという段階に至っていなく、市民参加を自然再生事業の「飾り」としたい意図も見えることがあります。
 予算の権限を持つ行政と事業を受注する業者という従来型の事業では自然再生事業は進展しないし、市民は行政の下請けとして継続性が必要な生態系の再生に参加することはないといえます。自然再生事業では、市民と行政のパートナーシップのあり方、対等平等な協働関係の構築も試されています。
 釧路湿原自然再生協議会ではこれまで50回を超える会議が開かれ、平日、昼間の会議にボランティア参加を続けてきました。資金・人材において地方の一市民団体の能力ではとても対応しきれないものになっています。このまま「参加・協働」を進めると「市民団体は潰れてしまう」様相すら見えています。事業の柱・主体となるはずの「市民の参加」が、時間的経済的な理由で困難になり、実質的に従来型の事業の展開となる可能性もあります。現状の「参加・協働」のあり方も問い直すことも必要になっています。

(JAWAN通信 No.81 2005年6月30日発行から転載)