諫早・ギロチンから10年

辻 淳夫 日本湿地ネットワーク代表

 1997年4月14日、諫早湾に「ギロチン」が落とされた夜、故山下弘文さんは、テレビでその映像を見て「勝った!」と叫んだという。その瞬間彼が名づけた「ギロチン」映像は、誰の胸をも揺さぶらずには置かない。必ずや、世界を揺るがす声となって跳ね返ってくることを直感されたからだった。
 事実、それまで足の遠かった全国の報道陣が諫早に向かい、イサハヤは「無駄で自然破壊の公共事業」の代名詞として、全国の、そして世界の話題になった。人々の熱い憤りは世論と環境庁を動かし、ゴミ埋め立て計画から藤前干潟を救う大きな力にもなった。
 それから3年、予言どおりの「有明大異変」が起こり、有明漁民7000人が結集したとき、彼の脳裏には、水門解放から干潟復元へ到る道が鮮やかにイメージされていたに違いない。2000年7月、ゴールドマン賞の集いから帰った彼を無常な「死」が襲うまでは。

 それから7年、ギロチンから10年、アセス判断の誤りを認めず、開門調査の約束も捨てて、実態とかけはなれた事業再評価で、遮二無二干拓事業を進めてきた農水省・長崎県は、13人もの自殺者が出たといわれる有明漁民の痛切な願いと、全国の市民の期待を裏切っただけでなく、持続的な未来へのビジョンを求める世界の流れにも逆らったままだ。
 昨年4月には韓国で、“諫早をモデル”に計画された、その10倍を超える規模(約4万haの干潟浅海域を40kmの堤防で閉め切る)の巨大なセマングム干拓事業が、世論を二分しながらも裁判で決着し、悲惨な轍を踏み始めた。来年には韓国でラムサール会議COP10が昌原市(チャンウォン)で開かれるが、そのときには、膨大な生態系を殺したことの結果が出ているに違いない。
  そのときどうするのか?諫早と有明海を救えないでいる私たちが言えることではないが、せめてセマングムには、日本がしてきたような「過ち」の上塗りをしてほしくない。
 諫早に先行して海を閉め切った始華湖(シーファー)の苦い経験を持ち、大都市ソウルの真ん中に清渓川(チョンゲチョン)を復元させた人々のしなやかな叡智を信じたい。
 
 今年4月14日の諫早には、故山下さんを日本の父と慕ったキム・キョンウォンさんら、セマングムで闘っている韓国の環境保全活動家らも来日参加されることになった。
 諫早・セマングムの絶望的な状況をともに見つめ直し、どうしてもそこにあらたな希望を見出していきたいと思う。
 2005年「愛・地球博」でのESD10(持続的開発のための教育10年)キックオフ集会で、「諫早の復元なしに、持続的な未来はない」と話したが、今あらためて言い直したい。
 
 諫早とセマングムの復元なくして、人類の未来はない。


諫早湾閉め切り10年キャンペーンで、全国から諌早に寄せられたメッセージ入りの黄色いハンカチ。(写真:諫早干潟緊急救済本部)

(JAWAN通信 No.87 2007年4月25日発行から転載)