里海里浜 〜豊葦原中津國〜

足利由紀子 NPO法人水辺に遊ぶ会

 8年前の夏の始まりの頃、当時まだ「中津干潟」という言葉もない浜の泥の中で、手の平にのる小さなカブトガニの幼生を見つけたことが、水辺に遊ぶ会の始まりでした。このカブトガニという不思議な生きものを通して、私たちは中津の干潟や海の豊かさを知り、海の文化に触れ、たくさんの人々に出逢いました。小さな生命の輝きが、私たちのつたない保全活動の原動力となったのだと感じています。

川がつくる干潟

 福岡県豊前市から大分県の国東(くにさき)半島のつけ根まで、周防灘(すおうなだ)に断続的に続く豊前海干潟。そのほぼ中央に位置し、干潮時には沖合約3kmまで干出する中津市沿岸の広大な干潟を私たちは中津干潟と名付けました。中津干潟は、耶馬英彦山(やばひこさん)国定公園から流れ出た急峻な山国川(やまくにがわ)が創り出した河口デルタです。この山国川と中津市内を流れる山国川水系の河川の河口域には、規模の大小はあるものの様々な環境が残されています。日々形を変える砂州、複雑な形の地形に海水と真水が出入りする塩性湿地、「豊葦原中津國(とよあしはらなかつくに)」と万葉の時代に歌われたアシ原、そしてどこまでも続く干潟と青い空。夏の夜、丘からきたアカテガニたちが水際で放仔を行い、沖からきたカブトガニが卵を産むこの場所は、川と海をつなぐ、生命をつなぐ大切な存在です。この一帯を歩くと、足元に無数に散らばる生きものの多さに感動するとともに、中津干潟は川によって生かされているんだということを実感します。

カブトガニ 中津干潟

里海里浜

 縄文時代、人々は河口の巻き貝や干潟の魚介類を糧としてくらしていました。弥生時代には稲作の傍ら、泥で作った小さなつぼを海に沈める蛸壺漁なども盛んになりました。戦後の食糧難を支えたのもこの豊かな海でした。春と秋の浜遠足、ザルを片手に夕飯のおかずを捕る人、風呂の焚き付けに松葉や流木を拾い集める子どもたちの姿……。ほんの十数年前まで、海と人は仲良くくらしてきたのに、時代が豊になるにつれ、人々の足は遠のき、いつの間にか海と浜は忘れられた存在になってしまいました。人々が大切につきあってきた海をもう一度見つめ直し、中津の海の未来を多くの人に考えてもらうきっかけづくりをしよう、そんな思いから水辺に遊ぶ会は誕生しました。私たちの活動の主眼は、当時も今も、「海と人の心の距離」をもっともっと近くしようというところにあります。

啓発活動

 水辺に遊ぶ会の基本は「たくさんの人に中津の海の豊かさや楽しさを知ってもらうこと」。自然観察会を中心に、地域の小学校や社会教育の場での環境学習のサポートなどを実施していますが、夏休み干潟観察会には毎年200名を超える参加者があるほか、市内および隣接する福岡県の多くの小中学校の総合的学習の時間に干潟が取り上げられ、また、環境デーには「中津干潟」をテーマに市内全小中学校で環境学習が実施されるようになったことは、とても喜ばしいことです。海への感謝の気持ちを込めて始めたビーチクリーンも7年、25回を超える実施になりますが、こちらも学校、企業、行政など多くの地元の方々から参加をいただくようになりました。海からのごみは減らないものの、外部からの持ち込みゴミは確実に減少傾向にあり、継続することによる抑止効果が見られます。また、漂着物調査もJEAN指導の下実施していますが、中津の海岸の漂着ゴミの傾向がわかり、廃棄物問題や海洋ゴミの問題提起に役だっています。

調査研究活動

 県境という地理的な問題や自然史博物館不在等の理由により、過去、中津干潟には調査の手がほとんど入ってきませんでした。自分たちの海の状況をきちんと把握することを目的に、多くの研究者の方々のご協力を得て干潟調査を実施していますが、中津干潟に生息する生物の実に4割が絶滅危惧種という、驚くべき結果を得ました。また、成果である標本やリストに関しては、建物のない博物館「水辺に遊ぶ会MUSEUM」を設置し、研究者と当会が共同で管理を行うという試みも実施しています。定量定性調査から測量まで、市民の手でも学術レベルの調査ができるというのが水辺に遊ぶ会の身上です。

カブトガニ調査の風景 漁業者と一緒に始めた蛸壺体験漁

合意形成とセットバック護岸

 活動を始めた当初、一部干潟を浚渫・覆砂しビーチをつくる計画がありました。中津港という地域振興と環境保全という相反する事象の解決のため、大分県に干潟の保全と利用に関する検討の場の設置を要望した結果、地元住民、漁業者、公募一般市民、研究者、自然保護団体、行政担当者などを構成メンバーとした環境整備懇談会が開催されました。全面公開、傍聴者の発言自由という画期的な会議での一年にわたる協議の結果、干潟は環境学習等のため現状のまま残すという提言を導き出しました。さらに、この会議を引き継ぐ形で、わずか200mあまりの小さな砂浜とそれに続く舞手川(まいてがわ)河口湿地の高潮対策についての協議会が実施されました。波浪による浸食が著しく、地権者より護岸設置の要望が出されていた一方、この一帯が生物多様性に富む場所であることから、5年にわたる協議が行われ、高潮対策と湿地保存を兼ね備えたセットバック護岸(河口湿地よりも陸域に護岸を設置)が実現することとなりました。この国内で例を見ない画期的護岸が実現したのは、水辺に遊ぶ会の生物調査や地形調査に基づく優れた企画書と、研究者の方々による技術面や法的な面での裏付け、行政担当者の頭が下がる作業の積み重ね、そして私たちの訴えに耳を傾けてくれた地権者の方々、皆の努力の結果だと思っています。護岸が設置された現在は、市民と行政と研究者によりモニタリング調査を継続しているところです。様々な立場の人々が、同じ目線で中津の小さな海岸について意見を交わした7年の積み重ねは、今後の保全活動の大きな力となると感じています。

新しい取り組み

 干潟や海の保全をはかる上で漁業者との連携は必要不可欠と考え、この数年、彼らとの相互理解のための努力を始めました。話をする、作業の手伝いをする、一緒に飲む……当初は「よそ者」扱いだった私たちに心を開いてくれる漁業者も増えてきました。漁獲の減少、後継者不足、高齢化……中津の漁業の現実を見据えながら、漁業者と共に中津干潟で歩む道を模索することが、水辺に遊ぶ会の新しいテーマのひとつです。

(JAWAN通信 No.88 2007年9月15日発行から転載)


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