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■湿地保全団体の紹介

千葉の干潟を守る会

〜谷津干潟から三番瀬へ〜


*「これ以上の埋め立ては止めさせよう」

 かつての東京湾は広大な干潟を擁していて、魚介類の宝庫であった。しかし1960年代、千葉県は干潟をかたっぱしから埋め立てた。1971年3月、「これ以上の埋め立ては止めさせよう」と、「千葉の干潟を守る会」が結成された。「いのち豊かな東京湾を子孫に残すために」をスローガンにし、大浜清代表(当時)、石川敏雄さん(のちの千葉県野鳥の会会長、故人)など17人で活動をはじめた。

〔写真1〕
千葉の干潟を守る会は1971年7月11日、千葉市中心街でデモ行進し、「埋め立てを中止せよ」「干潟を守れ」と訴えた。記事は翌日の『毎日新聞』。

*谷津干潟を保存

 運動のはじめは、習志野市地先の干潟埋め立てに反対する運動であった。街頭署名、デモ行進、行政交渉、観察会などの活動を活発にすすめた。運動は、習志野市の袖ヶ浦団地自治会や周辺町内会の協力を得て盛りあがった。「東京湾の埋め立て中止による干潟の保全に関する請願」を1972年の第68回国会に提出し、採択された。
 だが、県は杭打ちを強行した。干潟はみるみるうちにつぶされていった。その悔しさから、海をにらむ子どものポスターが生まれた。通称「寄り目のハゲ坊主」である。習志野市袖ヶ浦団地の3000戸の窓に吊るされたこのポスターは、1976年に千葉で開かれた「第2回全国干潟シンポジウム」のシンボルマークとなった。いまも千葉の干潟を守る会のマークになっている。
 習志野市前面の干潟は埋め立てられてしまったが、敗北はムダではなかった。当時、「大蔵省水面」と呼ばれていた谷津遊園前面約50haの海域は、かつての塩田用地として大蔵省管轄地であった。そのために埋め立てを免れた。
 習志野地先海岸の埋め立てがはじまると、エサ場を失ったシギ・チドリ類などの水鳥たちが「大蔵省水面」の干潟に集まってきた。この干潟は全国有数の渡り鳥渡来地となった。
 千葉の干潟を守る会は1974年、「大蔵省水面」の干潟を「谷津干潟」と命名し、保全運動をすすめた。谷津干潟の南部の埋め立て地を含めた200haを「自然教育園」として残すよう市民に訴えた。市や県にも働きかけた。この運動は市民から好意的に受け止められた。
 ところが、当時の習志野市長は、谷津干潟を埋め立てて住宅用地などとして使用する計画をたてていた。市議会の与党会派も、谷津干潟の保存を求める市民の請願に反対した。「干潟は臭いから埋めてしまえ」という一部市民の要求も根強くあった。
 その後、習志野市長の交代を機に、埋め立てを阻止することができた。教育園構想は、20年後の1994年7月、谷津干潟自然観察センターの開設によって実現した。
 千葉の干潟を守る会は、木更津市の金田海岸に広がる盤洲干潟(小櫃川河口干潟)の観察会や、干潟の価値を多くの人に知ってもらうための啓蒙活動、シギ・チドリの一斉カウント、水質調査などの活動もつづけた。
 また、第2回干潟シンポジウム(76年)、全国自然保護大会(83年)、国際干潟シンポジウム(92年)などの大きな会議を主幹・共催し、運動の輪を全国に広げた。諫早や藤前など全国各地の団体とも連携した。
 こうした活動の成果として1993年、谷津干潟は念願のラムサール条約湿地に指定された。千葉の干潟を守る会は1997年11月、「朝日 海への貢献賞 ボランティア賞」(朝日新聞社主催)を受賞した。

〔図〕

*NHK「たったひとりの反乱」が歪曲

 2009年12月8日、NHK総合テレビが「たったひとりの反乱〜ヘドロの干潟をよみがえらせろ〜」を放映した。森田三郎氏が谷津干潟をたったひとりで守ったという「孤独な闘い」を描いたものであった。
 森田氏が谷津干潟の保全に大きな役割を果たしたことは事実である。しかし、「たったひとりで」とか「孤独な闘い」というのは、事実とまったく違う。前述のように、千葉の干潟を守る会などの自然保護団体や市民団体、習志野市民も谷津干潟の保全に大きく貢献した。
 ところが、このドキュメンタリードラマは、そういう自然保護団体や市民団体、市民の奮闘はまったく無視した。そればかりか、自然保護団体は干潟の保全に消極的であったという描き方であった。さらに、干潟にごみを捨てつづけたとして、市民を愚者扱いした。谷津干潟は2本の水路で東京湾とつながっているため、台風時に大量のゴミが流れ込む。ドラマは、これらのごみもすべて市民が捨てたかのように描いた。大量のごみを除去するため、森田氏が「孤独の闘い」をつづけたという「感動物語」である。
 このドラマは、視聴率を稼ぐため、一人の人物をヒーローに仕立てあげるものであった。誇張や歪曲もおこなわれた。歴史は特定の英雄によってつくられるとする英雄史観の典型である。視聴率にこだわったら、史実は二の次、三の次になってしまう。
 谷津干潟保全運動にかかわった市民団体のメンバーから「滑稽(こっけい)なドラマ」という批判がだされた。怒りの声もあがった。そこで、千葉の干潟を守る会のメンバーが中心になり、小冊子『谷津干潟はこうして残った』を緊急に発行した。ホームページでも、事実を示してドラマの内容をきびしく批判した。こうした批判も効(き)いたのだと思う。シリーズ「たったひとりの反乱」は打ち切りになった。
 そもそも、たったひとりで公共事業を止めたり環境を守ったりすることができるという発想自体がバカげている。「よみがえれ!有明訴訟」の原告団長をつとめる馬奈木昭雄弁護士は、『弁護士馬奈木昭雄』(合同出版)のなかでこう述べている。
 《私は、たたかいには集団の力を結集させる必要があると確信しています。逆に、一人の原告・一人の弁護士でたたかうというのは、失礼を顧みずに言うと、「そんなたたかいはナンセンスの極み」「いまの時代、そんなたたかい方は冗談の域を超えて、犯罪に近い」と思っています。》
 まったくそのとおりだと思う。

〔写真2〕
習志野市の袖ヶ浦団地では、埋め立て反対のポスター「寄り目のハゲ坊主」が3000戸の窓に吊された=1972年

*三番瀬埋め立て計画を撤回させる

 千葉の干潟を守る会は、三番瀬の新しい埋め立て計画(市川2期・京葉港2期埋め立て計画)を止めさせる運動にもとりくんだ。
 この埋め立て計画は1993年に策定された。ところが、行政は埋め立て計画を県民に知らせなかった。また、「三番瀬」という名称を禁句とした。そのため、県民は、埋め立て計画はおろか、三番瀬の存在すら知らなかった。
 千葉の干潟を守る会などは1996年2月、埋め立て計画の撤回を求める署名運動を開始した。行政が知らせようとしない開発計画を市民に知らせ、三番瀬の貴重さと、それを失うことの意味を考えてもらう。そして一人ひとりの意思を表明してもらうことがねらいであった。また、「三番瀬をラムサール条約登録湿地にして保全しよう」とよびかけた。
 同年7月、「三番瀬を守る署名ネットワーク」を結成し、署名運動を大々的に展開した。自然保護団体だけでなく、レジャー団体、団地自治会、消費者団体、労働組合など70団体がネットワークに加わった。多数の市民が活動を繰り広げた。三番瀬の名は急速に広まった。署名は30万に達した。
 2001年春の千葉県知事選では三番瀬埋め立てが最大の争点になった。選挙戦で「三番瀬埋め立て計画の白紙撤回」を唯一の公約に掲げた堂本暁子氏が当選した。堂本知事は2001年9月に埋め立て計画を撤回した。その際、堂本知事は「白紙撤回は県民の意思」と述べた。埋め立て中止にとって、30万署名が動かしがたい重みとなった。
 埋め立て反対運動において、千葉の干潟を守る会などは「東京湾をこれ以上埋めるな」「干潟を守ろう」と訴えつづけた。このよびかけは、県民をしっかりとらえた。そして、諫早湾の水門閉め切りは埋め立てのむごたらしさを全国民の目に焼きつけてくれた。

〔写真3〕
市民500人が三番瀬で手をつなぎ、「人間の鎖」で三番瀬埋め立て計画撤回を訴えた=1998年11月15日

*三番瀬を後世に引き継ぐために

 前述のように、三番瀬の埋め立ては2001年9月に中止になった。しかし堂本知事は、「第二湾岸道路はどうしても必要」とし、この道路を三番瀬の猫実川(ねこざねがわ)河口域(浦安寄りの海域)に通すことをめざした。「三番瀬再生」の名で人工干潟(人工砂浜)を造成し、造成工事のさいに第二湾岸道路を沈埋方式で通すというものである。そのために堂本知事は2002年1月、「三番瀬再生計画検討会議」(通称・三番瀬円卓会議)を発足させた。したがって、この会議では、最初から最後まで猫実川河口域の人工干潟造成が焦点になった。円卓会議には、千葉の干潟を守る会の大浜清代表(当時)も環境保護団体の委員として加わり、人工干潟造成に反対した。
 しかしながら、円卓会議が2004年1月に県知事に提出した「三番瀬再生計画案」には、猫実川河口域とつながる市川市塩浜2丁目地先の人工干潟化が強引に盛り込まれた。これに反対したのは、円卓会議委員24人のうち大浜委員だけであった。以来、三番瀬では人工干潟造成をめぐる攻防がずっとつづいている。
 千葉の干潟を守る会は、猫実川河口域の人工干潟化を阻止するため、「三番瀬市民調査の会」の結成に尽力した。市民調査の会は、2003年の結成以降、猫実川河口域の自然環境調査をつづけている。13年におよぶ調査の結果、この海域は三番瀬の生態系や生物多様性にとって重要な役割を果たしていることが明らかになった。
 千葉の干潟を守る会は、東京湾奥部に唯一残った貴重な自然干潟・浅瀬の三番瀬を後世に引き継ぐため、ラムサール条約登録などの運動をつづけている。

〔写真4〕
千葉の干潟を守る会のみなさん。最前列の右から2人目は近藤弘代表、その左は大浜清前代表=2012年の新年会で
(JAWAN通信 No.111 2015年5月30日発行から転載)

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