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干潟を守り続けて半世紀

~千葉の干潟を守る会が創立50周年~


「千葉の干潟を守る会」は今年3月に創立50周年を迎えた。この半世紀、「守る会」は谷津干潟や三番瀬の埋め立てを中止させるなどさまざまな活動をくりひろげてきた。


◆「私たちの東京湾を守ろう」

千葉の干潟を守る会の結成は1971年3月27日である。当時は、東京湾の埋め立てがすごい勢いで進んでいた。1970年当時、東京湾奥では千葉県の習志野と幕張の海岸だけが残されていた。1971年、習志野市地先も埋め立て計画が認可される。

東京湾の埋め立てをなんとか食い止めたい。このままでは東京湾は死の海になってしまう──。そんな危機感をいだいた学生や若い人たちが中心になって「守る会」を旗揚げした。大浜清さんや石川敏雄さん(故人)も加わった。「いのち豊かな東京湾を子孫に残そう」「私たちの東京湾を守ろう」をスローガンにかかげて活動をはじめる。

運動のはじめは、習志野市地先の干潟埋め立てをやめさせることである。街頭署名やデモ行進、市・県との交渉、請願・陳情を活発に進めた。干潟の観察会も開いた。

運動は、習志野市の袖ヶ浦団地自治会や周辺町内会などの賛同や協力を得て盛りあがった。だが1972年、県が杭打ちを強行する。干潟はみるみるうちにつぶされていった。

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その悔しさから、海をにらむ子どものポスターが生まれた。通称「寄り目のハゲ坊主」である。このポスターは、袖ヶ浦団地の3000戸の窓に吊るされた。1976年に千葉市で開かれた「第2回全国干潟シンポジウム」のシンボルマークになった。千葉の干潟を守る会のシンボルマークでもある。

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習志野市の袖ヶ浦団地では、埋め立て反対のポスター「寄り目のハゲ坊主」が3000戸の窓に吊された=1972年、千葉の干潟を守る会提供

◆盤洲干潟の埋め立てを中止

当時は高度成長から列島改造へと、便利さを求めて突き進んだ時代だった。命を脅かす公害激増の時代でもあった。公害対策基本法や大気汚染防止法、水質汚濁防止法などが次々と制定される。だが、その成果は十分とはいえなかった。

こうしたなかで、「守る会」は魚介類や鳥たち、そして私たち人間自身のために「干潟を守ろう」と立ち上がった。誕生したばかりの環境庁(現環境省)に干潟の保存を訴えた。国会にも「東京湾の埋め立て中止と干潟の保全」を求める請願を提出する。この請願は、1972~73年の第68回と第71回の国会で採択された。これによって盤洲干潟(小櫃川河口干潟)の埋め立ては中止になった。盤洲干潟は日本最大規模の砂質自然干潟である

◆谷津干潟を保存

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谷津干潟の略図

千葉の干潟を守る会は、東京湾の干潟を保全するため、社会にねばりづよく働きかけた。会員は、習志野、船橋、市川、千葉の各市から全国にひろがる。全国各地の自然保護団体と協力し、干潟保全活動を拡大させた。

幸いなことに、習志野市地先の谷津干潟は大蔵省所管の国有地となっていた。そのため、公有水面埋立法では埋め立てることができなかった。だが、習志野市が谷津干潟の埋め立てを計画する。住宅用地の造成などが目的である。「守る会」は、この干潟を「谷津干潟」と命名し、埋め立て反対運動を進めた。

第1回全国干潟鳥類一斉カウントによって、谷津干潟にはシギ、チドリが全国最多の8分の1も集結していることが判明する。そこで、「谷津干潟を自然教育園にしよう」という運動もはじめた。1976年は「全国干潟シンポジウムin千葉」を主管し、海浜保全基本法の制定を要求した。

1974年、谷津干潟の真ん中に湾岸道路(東関東自動車道)を通すという計画ももちあがった。これにたいし、習志野市袖ヶ浦・谷津と船橋市若松の住民などが「袖ヶ浦・谷津・若松・稲毛 公害から住民を守る連絡会」を結成する。連絡会は谷津干潟保全運動と連携して湾岸道路建設反対運動を進めた。その結果、道路は計画変更され、海側(南側)へ500m移ることになった。また、道路の北側に100m幅の緩衝帯を設けることになった。この100m緩衝帯は、谷津干潟の鳥をはじめ、周辺住民の生活環境にとって重要な意味をもっている。

こうした運動の結果、習志野市は谷津干潟の埋め立て計画を断念した。1984年である。1988年には国指定鳥獣保護区(ほとんどが特別保護地区)に指定される。そして1993年、ラムサール条約第5回締約国会議(釧路会議)でラムサール条約湿地に登録された。日本で7番目、干潟としては初のラムサール条約登録である

その後、習志野市は6月15日を「谷津干潟の日」と定めた。谷津干潟自然観察センターでは毎年、この日を中心にさまざまな催しがおこなわれている。

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谷津干潟のシギ・チドリを観察する人たち。谷津干潟は「千葉の干潟を守る会」などの埋め立て反対運動によって保存され、干潟では日本初のラムサール条約湿地となった。習志野市の宝として市民に愛されている=2021年5月9日、中山敏則撮影
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谷津干潟のセイタカシギ=中山敏則撮影

こうした活動が認められ、「守る会」は1997年、「朝日 海への貢献賞」(朝日新聞社主催、文部省など後援)のボランティア賞を受賞した。「藤前干潟を守る会」とともにである。

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第2回「朝日 海への貢献賞」表彰式のあと、受賞者と審査員が記念撮影。2列目の右から、千葉の干潟を守る会の牛野くみ子さん、大浜和子さん(故人)、大浜清さん。3列目の左から4人目は、藤前干潟を守る会の辻淳夫さん=1997年11月30日、朝日新聞社提供
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「藤前干潟を守る会」の辻淳夫代表(当時)と「千葉の干潟を守る会」の大浜清代表(同)を紹介した1997年12月14日の『朝日新聞』。両団体は第2回「朝日 海への貢献賞」ボランティア賞を受賞した
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市民500人が三番瀬で手をつなぎ、「人間の鎖」で埋め立て計画撤回を訴えた。参加者の大半は若者である。マスコミも大きく報じた=1998年11月15日、中山敏則撮影

◆三番瀬埋め立て計画を白紙撤回

~第二東京湾岸道路も28年阻止~

一方、谷津干潟と2本の水路でつながる三番瀬は、依然として開発の危機に瀕している。

1993年3月、千葉県が三番瀬埋め立て計画を発表する。埋め立て面積は740haだ。三番瀬の干潟をすべて埋め立てる計画だった。三番瀬保全団体は「東京湾をこれ以上埋め立てるな」という運動をはじめた。運動の高まりによって、県は1999年6月に埋め立て計画を見直す。埋め立て面積を740haから101haへ大幅に縮小した。見直し計画は、国策(国家事業)の第二東京湾岸道路を三番瀬に通すことが主な目的である。埋め立て反対運動はますます盛りあがった。「三番瀬を第二の諫早湾にするな」の声が高まった。埋め立て計画の白紙撤回を求める署名は最終的に30万人に達した。

2001年春の県知事選では三番瀬埋め立てが最大の争点になる。選挙中に朝日、読売、毎日の新聞各紙がおこなった県民世論調査では、いずれも「埋め立て反対」が過半数を占めた。三番瀬埋め立て計画の白紙撤回を唯一の公約に掲げた堂本暁子氏が当選した。

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千葉の干潟を守る会の創立30周年記念式典を報じた2001年9月1日の『千葉日報』

2001年9月、堂本知事は運動と世論におされて三番瀬埋め立て計画を白紙撤回する。しかし堂本知事は「埋め立て計画は白紙撤回するが、第二湾岸道路は建設する」と表明した。県は、三番瀬の猫実川河口域で人工干潟を造成する計画をうちだした。この海域に第二湾岸道路を沈埋(ちんまい)方式で通すことが目的である。

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日本湿地ネットワーク(JAWAN)が主催した盤洲干潟観察会。この干潟も、「千葉の干潟を守る会」などの運動によって埋め立てが中止になった=2011年5月21日、中山敏則撮影
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『千葉の干潟を守る会 40年史』の発行を報じた2011年11月1日の『東京新聞』(千葉版)

千葉の干潟を守る会などの三番瀬保全団体は、人工干潟造成と第二湾岸道路建設を阻止するためにさまざまな運動をくりひろげた。人工干潟造成をめぐる攻防は15年つづく。そしてついに2016年10月、県は人工干潟造成計画を中止した。第二湾岸道路の建設もくいとめた。

だが、国交省と千葉県は三番瀬を通る第二東京湾岸道路の建設をあきらめない。2019年1月、第二東京湾岸道路の建設にむけた検討会の設置を石井啓一国土交通大臣(当時)が表明した。国土交通省は同年3月、千葉県湾岸地区道路検討会を設置する。

同検討会は2020年5月、新たな高規格湾岸道路(高速道路)建設計画の基本方針をまとめた。ルートは外環道高谷JCT(市川市)-蘇我IC-市原ICだ。三番瀬は通らない見込みとなった。三番瀬を避けたのは三番瀬保護運動や世論の力によるものである。第二湾岸道路を三番瀬に通すことに沿岸3市(船橋市、市川市、浦安市)が反対や慎重な姿勢を示していることも大きい。

しかし県は、高谷JCTより西側の第二東京湾岸道路の建設についても国に要望をつづけるとしている。「守る会」などは油断せず、三番瀬を守りぬく運動をつづけている。

◆三番瀬のラムサール登録をめざして

三番瀬保全団体は、三番瀬を後世に引き継ぐため、ラムサール条約登録を求める運動もつづけている。三番瀬のラムサール条約登録を求める署名は、現時点で18万人分を集めている。

しかし日本では、都道府県など地元自治体の同意が登録の絶対条件になっている。千葉県は三番瀬のラムサール条約登録に否定的である。三番瀬に第二湾岸道路を通すことをあきらめていないからだ。保全団体は、登録実現にむけて世論喚起や行政交渉などを進めている。

(中山敏則)


JAWAN通信 No.135 2021年5月30日発行から転載)