村上宣雄(山門水源の森連絡協議会会長) 1.里山に抱かれた3万年の歴史――山門湿原と山門水源の森JR京都駅から湖西線に揺られて北へ向かうこと約1時間、電車は西浅井町の玄関口、終点永原駅のホームへとすべりこむ。駅を出るとあたりには穏やかな山並みに抱かれた田園風景が広がり、その中を大浦川がさらさらと流れている。この水は琵琶湖へ注ぎ、やがて淀川の生き物たちと京阪神の人々ののどを潤す。この大浦川をさかのぼって車を走らせること約10分(レンタサイクルで約30分)、福井県まで目と鼻の先にせまった山道沿いに、山門湿原への入り口はある。あたりはやせた花崗岩地帯でアカマツの林が連なる。車を降り立つと、花崗岩のくずれたうす桃色のマサ土が靴裏とアスファルトの間でざっざっと音を立てる。今年竣工したばかりの学習拠点施設「やまかど・森の楽舎(まなびや)」を訪れ、地図とガイドブックを入手し、ボランティアガイドから今日の見所を聞いて湿原に向かう。雑木林を30分ほど歩くと、山に抱かれた湿原の上にぽっかりと空が開けてくる。環境省の「日本の重要湿地500」にも選定されているこの山門湿原は約3万年前に誕生した面積約6haの高層湿原で、泥炭層の深さは6mに達する。ミズゴケやミツガシワをはじめ、モウセンゴケ、ミミカキグサ、タヌキモなどの貧栄養植物が生育し、キンコウカ、サギソウ、トキソウなど25種類の貴重植物が生育している。 湿原の集水域とその周辺63.5haの森林は、1995年に林野庁の「日本の水源の森100選」に選定され、1996年には滋賀県によって公有化され、全域が保安林に指定されている。 この森はもともと地元の共有林で、昭和35年ころまでは薪炭林として伐採が繰り返されてきた。燃料革命を境に放置された後は、県内に広く分布するアカマツ−コナラ林に遷移が進みつつあるが、スギやヒノキの植林のほか、暖帯の萌芽林であるアカガシ林と温帯の極相林に近いブナ−ミズナラ林が成立しており、暖帯と温帯の植物が混在する珍しい森林となっている。
こうした美しい風景と多様な生き物たちの息吹に触れようと、毎年約4000人の人々がこの湿原を訪れている。 2.ゴルフ場開発、保護運動、公開と保全――山門水源の森の歩み今でこそ広く世に知られるようになり、多くの訪問者でにぎわうこの湿原は、ほんの20年前ほどまで地元の人々と一握りの自然愛好家にしか知られていなかった。しかし1987年、周囲一体をゴルフ場として開発する計画が持ち上がり、消滅の危機を迎えた。当時この湿原の総合調査にあたっていた藤本秀弘氏と村上宣雄をはじめとするグループは湿原の重要性を訴え、関係機関と一体となって計画の阻止に取り組んだ。 バブルの崩壊もあって1996年にゴルフ場計画は消滅し、この地を県が買い上げるこことなり、湿原はいっきに保全・公開の方向へと向かった。しかし、単に公開し無秩序な利用が始まってしまえば、盗掘や立ち入りによって湿原が壊滅的なダメージを受けることが容易に想像された。 そこで私たちは、ハイキングコースやパンフレットなどの整備を行政と連携して進める一方で、一日も早い公開を望む行政を制し、保全の体制作りを進めるための時間として一年を費やした。その間、私たちは「山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会(以下、引き継ぐ会)」を組織し、地元集落との話し合い、中学校の学習活動としての活用、ハンドブックの作成などを通じて、湿原の保全に関する地域の意識向上と保全に関わる人々の連携体制の構築を進めた。そして満を持して2001年、湿原の重要性と保全の必要性を訴える「山門水源の森ミニシンポジウム」の開催をもって湿原の賢明な利用体制がスタートした。 その結果、湿原の重要性は町内に広く知られ、地元集落と行政機関と私たち民間団体が連携しながら維持管理を進める体制が構築できた。土日祝日にはボランティアガイドがパトロールを兼ねて湿原に常駐し、環境学習やエコツーリズムに活用されている。県外からの訪問者も多いが、マナーはよく、リピーターも多い。当初懸念されていた公開による壊滅的な打撃はまぬかれ、湿原は自然のいとなみを営々と続けている。(年表参照)
3.調査研究、広報と交流(CEPA)、維持管理
山門湿原の保全の体制がこのように整ってきたのは、3つの大きな柱となる活動が過去から現在まで一貫して続けられていることに背景がある。 |
山門湿原の状況と会の取り組みををいち早く伝えるホームページ |
1964 | 福井県の斎藤寛昭教諭により湿原の調査が行われ、当時の村長に報告書を送付し、保全の重要性を手紙で願い出る。 |
1970 | 村上宣雄らが斉藤氏の報告書をもとに調査に入る。 |
1978 | 環境庁の貴重植物群落調査で県や環境庁に報告。 |
1987 | 山門湿原研究グループ(代表藤本秀弘)が総合調査を開始する。この年この森一体をゴルフ場にする報道がなされ賛否両論となる。 |
1990 | ゴルフ場計画が具体化する。藤本や村上らが県や町に湿原の重要性を訴える。 |
1992 | 山門湿原研究グループの調査報告書「山門湿原の自然」が完成。県や関係機関の湿原の重要性を報告。テレビや新聞の取材と報道が続く。 |
1995 | 水源の森百選に選ばれる。 |
1996 | バブルの崩壊により、ゴルフ場計画は消える。県は約4億円で公有林化し、公開の方向へ向かう。 |
1998 | 村上と藤本はこれからのこの森の保全に向けて県に協力するとともに、県、町、地元、民間団体の四者の連携体制を構築するための「山門水源の森連絡協議会」(仮称)の設立を提案し話し合いが続く。森の整備に向けて相互に定期的な話し合いがもたれるようになる。 |
1999 | 湿原に牧場の牛が進入し、帰化植物の駆除を西浅井中学生や保護者がボランティアで行う。観察会の依頼が始まる。 |
2000 | 山門水源の森を次の世代に引き継ぐ会が「山門水源の森は今」と題しミニシンポジウムを開催する。 「山門水源の森連絡協議会」が正式に発足。 |
2001 | 引き継ぐ会が正式に発足。「第1回山門水源の森生態系保全シンポジウム」を西浅井町と引き継ぐ会が共催で開催し成功裡に終わる。パトロール回数は年間80回を超える。HP開設。環境省「日本の重要湿地500」に選定。 |
2003 | 観察会の案内依頼が急増する。エコツーリズムのシステムで少人数の案内を引き継ぐ会でスタートさせる。 |
2004 | 学習拠点施設「やまかど・森の楽舎」完成。「第2回山門水源の森生態系保全シンポジウム」を引き継ぐ会と町や県の共催で開催し成功裏に終わる。 21世紀の森作りの管理マニュアルを作る「森づくり検討委会」がスタートする。 |
(JAWAN通信 No.79 2004年12月10日発行から転載)