見るべきものを見ているか?

辻 淳夫(日本湿地ネットワーク代表)

 今年の「干潟を守る日宣言」づくりで、愛知万博のテーマ「自然の叡智」にふれたことで反発があった。ニセモノ批判や嫌悪感はあって当然だが、「万博と干潟のつながりは?」には、それはないと決めてかかる響きを感じた。批判は必要だが、現実をしっかり見つめ、そこから何ができるか、何をするかを考えないでは、仲間になる人も増やせないだろう。

「持続型開発」と「諫早」

 愛・地球博地球村で4月17日に「国連持続型開発のための教育10年(ESD10)」のシンポジウムがあった。オープン直前に参加依頼を受けて、私は予定の諫早ゆきを往復夜行バスに変えて、諫早の現実を伝えることにした。弘文さんがバスで名古屋に来てくれたことを思い出しながら、変わり果てた諫早を原田さんに案内してもらい、16日のシンポで自殺者13人を報告された4県漁民の沈痛な表情を写し、藤前の保全と転換の契機となった、諫早・有明海の現実を見てもらった。
 参加者には少なからぬ衝撃だったようだ。しかし、どんなに重いことでも、諫早に向き合わずに「持続型」を云々できない。遠方から参加した若い方から嬉しいメールがきた。「ほんとうに諫早湾が守れなければ私たち全体の未来もないと思います、お聞きしたことを日々の中に活かしていきたい」と。
 理不尽なごり押しをつづける農水省には勿論、諫早駅前に今も「諫早干拓事業断固完遂」の垂れ幕を掲げ続けさせている諫早市民や、「有明大異変」の後も「諫早」にふれようとしない環境省、未来世代への責任をもつ人、感じる人に聞かせたいと思った。
 しかし、翌5月の福岡高裁は、昨年の佐賀地裁の道理ある差し止め判決を不当にも覆し、瀕死の有明海と漁民の慟哭をおしつぶした。現場では身体を張った工事再開阻止行動が始まった。漁民は、公害等調整委員会の「原因裁定」に必死の願いをつなぐほかないが、私たちに、今は対極にある二つを同義語に変える智恵はないだろうか?

環境省に一番期待すること

 久しぶりの話し合いで、環境省がラムサール登録地の倍増に努力を払っているのは分ったが、一番やってほしいことをやってもらえないもどかしさも感じた。JAWANの意見書で丁寧に書いてあるが、何より、国家湿地政策が、生物多様性条約に書いてあるという説明はあまりにおざなりだ。
 汐川も、三番瀬も、中池見も、先行開発計画が外されたのに、登録へ進めなかったのはラムサール条約が一番求める、「理解を広め、説得する努力」が足りなかったといえよう。上記3例は、ラムサール条約が「鳥獣保護のため」というよくある「誤解」を解き、漁業や農業にとってもプラスの、人間の生存基盤として重要な湿地のはたらきを広くアピールする機会として活かすべきだった。反省は自分にも向け、遅まきながら汐川では、地元の農民の方々に、「鳥と共存できる」と言ってもらったので、次に活かしてほしい。

山川里海のつながりこそ

 登録地倍増計画は、ラムサール条約を広める重要な機会ではあるが、それだけにこだわると、本質を見失うことにもなりかねない。今、環境に関わる多くの人が、山川海のつながりを、その流域全体でみて、それぞれにある制度の壁を超えてつながる必要性を感じているようだが、それこそ、ラムサール条約の釧路会議で(COP5、1993)議論されていたことだ。
 藤前干潟がラムサール登録地になって、干潟がある伊勢湾とその流域の環境修復をと声をあげて3年目、当初、海に関わる人が多かったのが、森や川の保全修復にがんばっている人々とつながり、伊勢・三河湾流域ネットワークとしてつながった。市民と研究者が手をつないで、広域的なアサリ調査や、120河川河口部での水質調査「海の健康診断」からはじめ、この6月には、矢作川森林保全協議会(矢森協)の主催で、全国でも例のない200人のボランティア参加による矢作川源流域での「森の健康診断」が行なわれた。
 林業の衰退で放置されたままの人工林が山の荒廃につながり、間伐が必要と分りながら手をつけられずにいる森を、市民の手で診断し、処方を考えていくものだ。これは秋には藤前干潟につながる庄内川源流域でもと企画されている。

 環境省設置法で10月から、全国8箇所に環境省の地方事務所が設置されるという。山川海のつながりと、里や町にすむ人々の実業とくらしのつながりを視点においてこそ、その流域がもっているいのちのつながりと、生態系のゆたかさ即ち土地の力が見えてくるはずだ。
 20世紀の工業化のための乱開発と高度経済成長と都市化の中で壊されてきたもの、社会全体として一番見失ってきた、そこにしかない価値に気づくことができるかもしれない。
 しかし、それは種々の「壁」にしきられたしくみや、一元的なトップダウンでは、これまでの「共同無責任状態」から脱け出せない。損なわれた環境を取り戻すとして制定された自然再生推進法でも意識されているような、ボトムアップの市民参画が必要だ。ただ、そこにはまだ、いのちからの視点が欠けていて、「自然再生事業」が正しくそうであることを補償するしくみがない。

 ラムサール条約の理念と、バレンシア会議で採択された「湿地復元の原則と指針」には、「いのちの再生」はできない、だから残されているものの保全が第一義という、人間の傲慢さをおさえて、いのちのしくみにゆだね、その意向に従おうとする謙虚さがある。アサザプロジェクトの提唱されている、「いのちに評価される社会システム」の再構築こそ私たちがめざすべきところだろう。
 私流に言えば、「鶴が舞ってたあゆち潟、伊勢湾丸ごとラムサール」である。

(JAWAN通信 No.81 2005年6月30日発行から転載)