有明海原因裁定事件の不当な結果

堀 良一(日本湿地ネットワーク運営委員/弁護士)

 8月30日に、公害等調整委員会は、漁業被害の原因は諫早湾干拓事業(諫干)にあるとして、2003年4月16日に有明海漁民が申請した「有明海における干拓事業漁業被害原因裁定事件」について、17名の漁民全員の申請を棄却するという大変残念な裁定をしました。
 この結果は、これまでの審理経過からすると、全く予想外でした。
 まず、今回の裁定にあたって、公害等調整委員会は、4名という異例の数の自然科学の研究者を専門委員に任命しました。専門委員というのは、自然科学の分野には素人の裁定委員(3人:裁判官出身と官僚の出向者と法律分野の研究者)を補佐するためのものです。ご承知のように、有明海異変について真面目に研究している研究者には、国の言うように諫干が有明海異変とは無関係という立場の人はほとんどいません。専門委員は大変熱心に審理に参加しました。
 審問は10回行われ、2日間の現地調査も行われました。漁民側と国側の双方から申請したそれぞれ3名ずつの研究者証人の尋問を行いましたが、国の立てた証人は、有明海異変を研究していないような人物ばかりで、専門委員からもそのことを厳しく追求されたりしました。
 そのうえで、専門委員は、これまでの研究成果を踏まえ、独自のシミュレーション調査を行うなどして、詳細な報告書を提出しています。
 専門委員報告書は、魚種と漁場ごとに漁場環境の変化を検討し、その結果、諫干との関連性について、諫早湾近傍場については明確に結論づけることができるとし、それ以外の漁場についても、強弱の程度の違いはあるものの可能性を肯定しています。全体としては、ノリ第三者委員会の成果をさらに前進させたと評価しうるものです。研究者の立場から、慎重に、可能性とデータ不足などからくる限界について論じており、大変真摯な内容のものでした。
 本来、このような専門委員報告書を踏まえるならば、法的因果関係の認定は十分に可能であるし、わたしたちはそう確信していました。
 そもそも、法的な因果関係の認定には自然科学的な厳密さを要求しないというのが、確立された判例理論です。それは、法的な因果関係の認定は、自然科学的な研究のためになされるものではなく、被害の発生を前にして、事業中止や被害救済のための責任を誰に取らせるべきかという、いわば社会的な意思決定のためになされるものだからです。悲惨な被害が出ているときに、自然科学的に厳格な因果関係が認められないと事業の差し止めなどの責任追及ができないのでは、もはや手遅れになってしまいます。
 したがって、自然科学的な研究の到達点を踏まえながらも、同時に、事業者側の態度や、事業の経緯と被害発生の経緯の関連性など、全ての事実と証拠が総合判断されます。その上にたって、専門家を基準としてではなく、一般人を基準として、疑いを差し挟まない程度の関連性が認められるかどうかが判断されます。
 どうですか、この間の経緯、とりわけギロチン以後の経緯をよくご存じのみなさんは、いま、有明海漁民に襲いかかっている不作や廃業、自殺などの深刻な被害は諫干が原因に違いないと思われるでしょう。曇りなき眼でみれば、事実は誰の眼にも明らかです。これに自然科学的に合理的で有力な説明があれば、多少のデータが不足していても、待ったなしで法的因果関係を認定しなければならないはずです。これをきちんとやったのが佐賀地裁でした。これまでの判例理論を逸脱して、自然科学的に厳密な証明を事実上求めて漁民を負けさせたのが福岡高裁でした。
 今回、公害等調整委員会は、口先では自然科学的に厳格な証拠はいらないなどと述べていますが、データや自然科学的な知見が不十分であることを根拠に因果関係を否定して、実際には、福岡高裁と同じ過ちを犯しています。これは不可知論そのものです。
 このような判断がまかりとおるのなら、いつまでもこの種の事件では因果関係は認定できません。


原因裁定の結果を受けて会見する弁護団(8月30日)

 また、中長期開門調査をサボタージュしてデータの収集を怠り、それを基礎とした科学的知見の前進をはばんでいるのは農水省です。これでは、サボタージュしたものが勝ちだということではないでしょうか。中長期開門調査が行われていないことの不利益を漁民側に負わせるのは不公平であるとした佐賀地裁の仮処分決定とは正反対の判断です。
 異様なのは、今回の裁定は、自らがお願いして就任してもらった専門委員の報告書よりも、はるかに後退した判断をしているということです。そもそも、裁定委員は自然科学の分野には素人だから専門委員を選任したはずです。その専門委員が自然科学の見地から、利用できるデータとこれまでの研究成果を総合した専門的判断を、お願いした側の自然科学には素人のはずの裁定委員が、いちいち文句をつけていくのですから、お願いされた専門委員からすれば、これほど馬鹿にした話はありません。ちょうど、農水省が自らノリ第三者委員会を作って、多くの研究者などに委員への就任をお願いしたにもかかわらず、開門調査という都合の悪い結論がでると、それにそっぽを向いたのと極めて似ています。
 大変、残念な不当な裁定ですが、わたしたちが忘れてはならないのは、諫干は全くシロであるという判断をされたのではないということです。裁定委員会が、わざわざ異例の談話を発表して、そのことを述べているのは、言い訳がましくて噴飯ものですが、福岡高裁が同じように、中長期開門調査の責務があると述べているのと並んで、今後の運動にとっては重要です。
 つまり、佐賀地裁はもとより、福岡高裁も、公害等調整委員会も、因果関係認定のハードルをどう設置するかによって、結論は別れましたが、有明海で生じている事実を前に、遂に、諫干が無関係という認定は一度もできなかったのです。むしろ、諫干と有明海異変は無関係という農水省の主張は、どの手続きにおいても明確に否定されています。
 沿岸4県にまたがる広域の、しかも、廃業・自殺という深刻な被害が生じていて、それに対し、最大限ひいき目にみても灰色の原因があるときに、その原因とされた諫干をこのまま無条件に継続できるとすることはできないはずです。
 その点に確信をもって、今回の裁定にくじけることなく、有明海再生の日まで頑張りとおさなくてはなりません。

(JAWAN通信 No.82 2005年9月25日発行から転載)