鈴木マギー 日本湿地ネットワーク運営委員 多くの人たちと同じように、山下弘文さんにお会いする前に彼の本を読みました。私の場合は、「だれが干潟を守ったか・有明海に生きる漁民と生物」(人間選書、1989年7月出版)でした。
そのころ私は「地球の友」の会員でした。地球の友はその前に「熱帯林行動ネットーク(JATAN)」の設立に力を入れていたので、「日本湿地ネットワーク(JAWAN)」の結成にも支援しました。東京から仲間も参加しに来ました。しかし、残念ながらそのすぐ後に、地球の友のリーダーたちから突然、「この運動はやめます。解散しますか?」という話が出され、地球の友自身を存続させるのがぎりぎりのところでした。JAWANがJATANのように地球の友からの支援、特に山下さんの人件費をもらう可能性がなくなりました。 全国から集まるのがかなり大変で、運営委員会はみんなが集まることができるイベントのときを利用して開きました。そのためなかなか思うように時間がとれず食事をしながらの会議がふつうでした。山下さんが「せめて生活のため月15万円はないと運動は続けられません」との叫び声を毎度聞きました。なにもできなかったことは申し訳なかったといつも思います。 JAWANができてからすぐ、山下さんの大学生のころの故郷、高知県のサンゴが生息している海で、必要のない巨大なマリーナ建設を反対している前田些代子さんの呼びかけに応えて、山下さんは九州から、私は香川県から大手の浜へ行きました。山下さんと一緒に海で泳いで、きれいなサンゴ(サンゴ礁でなく、単独で成長するサンゴ)を見ました(写真3)。 山下さんは最初から干潟だけでなく、危ない湿地と市民運動でさえあればJAWANは味方になるべきだ、という見方をする方でした。特にお酒がおいしい地域ならなおさらね。ハッハッハ。
ところで1993年の釧路会議で、日本湿地ネットワークの有名な活動は辻淳夫さんが日本の干潟についての緊急保全アピールをしたことだと思いますが、そのときのJAWANのサイド・イベントは山下さんのアイデアで「先住民と湿地保護」だったことは今ほぼ忘れられているのじゃないでしょうか。現地のアイヌの方々とオーストラリアから来た先住民の方が本会議場の前で、大きい竹のようなオーストラリアのディジュリドゥで自発的なコンサート・儀式を行ったこともありました。諫早の漁民を愛していた山下さんは世界の先住民たちについても心の底から大切にしていました。 1998年のゴールドマン賞のワシントンでの授賞式はナショナル・ジオグラフィック協会本部で行いました。そのとき、山下さんのスピーチの通訳をさせていただきました(写真4)。私は小さいころからナショナル・ジオグラフィックが大好きで、本当に夢のような瞬間でした。国際干潟シンポ1991の海外ゲストのサージ・デディナ氏のご協力で、岩永さんの名作品「干潟のある海・諫早湾1988」の一部がナショナル・ジオグラフィックのテレビ番組(アメリカ)で放映されたこともすごく嬉しかったです。 南アメリカからゴールドマン賞を受賞したコロンビアの先住民の方も、命賭けで土地を乱開発から守る運動をしていました。受賞者の中でお酒を飲むのはこの方と山下さんのみでしたので、いつも一緒に食事をしていました。 スペインのラムサール会議のときに私は南アメリカから来た先住民の方に声をかけました。「ラムサール条約について、どう思いますか?」すると、おいしくない食べ物が口に入ったような顔をして「言葉ばかし」と答えました。 山下さんは亡くなる直前まで諫早の干潟の再生に燃えていましたが、韓国の干潟についても真剣に取り組んでいました。諫早干潟より10倍以上大きいセマングム干潟についてかなり気になっていたと思います。 そして、次回のラムサールCOP10は、命賭けの運動を無視してセマングムを破壊している韓国で開催されます。山下さんが生きていたなら、今、何を言うでしょうか。残念ながら、私は想像できません。一般の人が想像できない考えをいつも自発的に出してくれた山下さんが、本当に今も生きていてくれたらいいね!と想います。 (JAWAN通信 No.86 2006年11月25日発行から転載) |