辺野古(沖縄)のおばぁの遺言〜ジュゴンの未来に続く物語〜
鈴木 雅子
(北限のジュゴンを見守る会代表)
2009年夏、わたしたち「北限のジュゴンを見守る会」は、沖縄本島から高速船でわずか15分の小さな離島で、ジュゴンと人々の関わりの聞き取り調査を再開した。 沖縄に現存するジュゴンの保護を目的として1999年に「本土」で保護運動を立ち上げた当会は、様々な保護活動の一環としてジュゴンの生きる社会の歴史文化的な側面の掘り起こしが必須であると判断した。
そして2004年から一年間をかけて琉球諸島に残るジュゴンの伝承の聞き取り調査を集中的に行い、報告書にまとめた。( 沖縄のジュゴン保護のために確保すべき生息環境についてのヒヤリング及び文献調査 2005年 11 月) しかし、その年の春よりジュゴンの棲む辺野古の海へ、米軍飛行場建設のための海底ボーリングを防衛施設局が強行する動きに、反対し、ジュゴンの海を守ろうとする住民たちと共に当会は現地で座り込み等の阻止活動に参加するなど、新たな展開の中で調査は中断せざるをえない情況に至った。 幸い、住民の粘り強い抵抗と全国からの支援の中で、2005年の10月には日本政府は辺野古海上案を撤回せざるをえなくなったが、米軍基地の再編計画の中で、新に辺野古沿岸に基地建設の計画を推進、2006年5月日米政府は地元の頭越しに辺野古・大浦湾に新基地建設を合意してしまった。 歴史的文化調査に着手してからすでに 5年近くの歳月が流れ、このまま放置すれば現存するジュゴンと共に、この島に息づいていたジュゴンと人々との関わりさえ失われようとしていた。沖縄防衛局の杜撰なアセスの調査結果では、沖縄のジュゴンの最小個体数は3 頭であり、なおかつその 3 頭の生息する海域への「米軍基地建設は沖縄県全体のジュゴンの個体群維持にほとんど影響がない」という驚くべき予測、評価である。 聞き取り調査で沖縄の各地を丹念に歩けば、かつて近くの浅瀬に寄ってきたジュゴンの群れの記憶を甦らせた人々たちは、懐かしさに溢れた眼差しの中で「今は辺野古にいるなら何がなんでも海を埋めてはならんよ」と明確に言い切る。「昔は貴重なタンパク源でね、それはおいしかったよ……」そして声をひそめて「もう一度、食べられるくらいに増えてくれるといいね」と、目を輝かせる。 他方、幼い頃にジュゴンを食べたことに心が痛み、この海にもう一度ジュゴンが安心して遊ぶ姿を取り戻したいという。また、ジュゴンは神様の使い、東海岸の基地建設の災いを恐れる神カミンチュ人にも出会った。 中断していた調査を再開して間もなく、辺野古集落で一番仲良しだったお年寄りが 90歳で急逝した。こんなに早くお別れが来るならば、もっともっと話をしておきたかった。 彼女の突然の死は、5 年という歳月の重みと、かけがえのなさを私に教えてくれた。忙しさを理由にこの島に息づくたくさんの物語を失おうとしていた。すでにどれだけの物語や記憶が消えてしまっただろうか……。それでも今ならまだ完全には消えていない。その記憶のカケラを拾い集め、この沖縄のジュゴンの過去から現在、そして未来に続く物語を紡げるなら……。 これが大好きだった「辺野古のおばぁ」小禄信子さんから託された「ヤマト嫁(日本のお嫁さん)」の役割だ。 月が変れば旧暦のお盆がやって来る。親しかったたくさんの魂がこの島に還って来る。(2009 年 8 月 30 日名護にて) (JAWAN通信 No.94 2009年9月25日発行から転載)
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