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名護の夜明けは

“やんばる”の自然とともに

─鳩山政権は新基地建設断念を─

浦島 悦子
(ヘリ基地いらない二見以北10 区の会共同代表)

海と山の恵みに生かされて

 沖縄島北部・名護市の西海岸に面した市街地から、島を横断する国道に沿って分水嶺を越えると、太平洋に面した東海岸が目の前に開ける。沖合のサンゴ礁に砕ける真っ白い波の花。その内側にエメラルドグリーンを湛えた波静かなイノー(内海)と常緑の山々に前後から抱かれ、同じ市域とは思えないほど静かなたたずまいを見せるここが、私の住む久志地域(辺野古・大浦湾沿岸地域。久辺3区及び二見以北10 区の13 区から成る)だ。

 深い山々から湧き出る水が小さな川となって海に注ぐところ、河口にできたわずかな平地にいつ頃から人が住み始めたのかはわかっていない。山懐に抱かれるように海沿いに点在する小さな集落は、遠い昔、海を渡ってこの地に初めて上陸し、ここを終の棲家と思い定めた人々が、耕地を開き、山に分け入り海に出て、ささやかな暮らしを紡ぎ、祖先神やムラの神々を戴いて、地縁・血縁を広げつつ、形作ってきたものだ。

 80 〜 90 年ほど前まで、深い山々に阻まれて陸路が発達せず「陸の孤島」であったこの地域の人々にとって、背後の広大な山々は制約であると同時に、クサティ(腰当て=守ってくれるもの)であり、また薪炭をはじめとする山の幸を与えてくれる大切な資源でもあった。ここから薪炭などの林産物を島の中南部へ運び出し、食糧や日用必需品などを運んできて交換するヤンバル船の時代は、戦後しばらくまで続き、水深のある大浦湾はヤンバル船の寄港地として賑わった。
 また、目の前に広がるイノーは、耕地の少ないこの地の人々の胃袋を賄う海の畑、天然の冷蔵庫として恵みを与え続けてきた。金銭的には貧しくても、豊かな自然、海と山の恵みに生かされてきたことを人々はよく知っている。
ヤンバル船のあった頃
ヤンバル船のあった頃

新基地建設に翻弄された13 年

 島を焦土と化した沖縄戦、その後の米軍占領という沖縄の苦難の歴史は、日本復帰後も形を変えて続き、米軍基地の重圧にあえぐ沖縄住民の鬱積した怒りと不満が、1995 年に起こった米兵による少女暴行事件で一挙に噴出した。それをなだめるべく、日米両政府は翌年、世界一危険な基地と言われる海兵隊普天間飛行場の返還を発表したが、県民の期待を裏切って移設条件付きとなったその代替地として狙われたのが、わが久志地域だった。
 過疎化・高齢化の悩みにつけ込むように持ち込まれた基地建設計画に対し、地域は一丸となって反対に立ち上がった。
 久志地域住民をはじめ名護市民は、当時の自民党政府によるあらゆる圧力や妨害をはねのけ、97 年12 月の住民投票で「基地ノー」の市民意思を表明した。しかしながらそれは、日本政府の圧力に負けた当時の名護市長によっていとも簡単に踏みにじられ、それ以降、私たちは、いくら声をあげても自分たちの声が政治に届かない無力感を味わわされてきた。
 権力に逆らっても無駄という絶望感に加え、防衛省予算で学校や公民館、診療所などが次々に改築あるいは新設され、地域振興という名目の補助金が注ぎ込まれるにつれて、地域には基地問題へのタブーが生まれ、住民が本心を語れない重苦しい雰囲気が漂うようになった。貧しくとも助け合い、築き上げてきた温かで緊密な人間関係・共同性はズタズタにされ、集落自治は侵食されていった。
 地域の4 小学校がこの4 月から1 つに統合され、3 校が廃校になった事実は、基地がらみのお金や「振興策」が決して地域を振興などしないことを象徴的に示している。
二見以北10 区と大浦湾
二見以北10 区と大浦湾

1 本の杭も打たせていない

 そんな中でも、地域住民を中心とする新基地建設への抵抗・反対運動は、ある時には激しく、ある時には静かに、ねばり強く続けられてきた。
 この13 年間に計画の中身は二転三転してきたが、いずれも住民の抵抗と、全県・全国・世界にまで広がった共感・支援の輪に阻まれて実現せず、辺野古・大浦湾の美しい海には未だ杭1 本も打たれてはいない。
 沖縄戦の体験から、子や孫たちにイクサバヌアワリ(戦争の悲惨)は二度と味わわせてはならないとする強い意思、「命の恩人」である海や自然に対する深い感謝と、命をかけてもそれを守りたいという地域のお年寄りたちの思いが若者たちに引き継がれ、多くの人々の心を動かした。
 夏は熱射に焼かれ、冬は寒風にさらされながら現在も続けられている海岸でのテント座り込み(2004 年4月以降、2100 日を超えようとしている)、熾烈をきわめた海上阻止行動も、全県・全国から駆けつけてくれた多くの人々に支えられてきた。
 昨年の衆議院選挙で民主党が圧勝、基地を押しつけてきた自公政権が崩壊し、沖縄の全選挙区で新基地建設に反対する議員が選出されたことは、私たちにとって何ものにも勝る喜びだった。
 新政権なら私たちの悲願を実現してくれるという期待はしかし、政権発足前後から、民主党が選挙前に主張していた「県外・国外移設」のトーンを弱め「県内」に軸足を移すにつれて、次第に不安に変わっていった。

2100 日を超えた辺野古テント座り込み
2100 日を超えた辺野古テント座り込み

名護市長選勝利=新しい歴史が始まった

 そのような中で行われた今回の名護市長選挙(1 月24 日投開票)は、12 年前の市民投票で示された「基地ノー」の民意を、再び、はっきりと示すものとなった。
 ひも付き「振興策」のもとで倒産・失業・生活苦にあえぐ市民が、ゼネコン支配下ではもう生きられないと、基地の利権にまみれたこれまでの市政にノーを突きつけたこと、基地問題によって分裂させられた地域の絆をもう一度結びなおしたいという市民の熱い思いが、「辺野古・大浦湾の海に新基地は造らせない」「市政刷新」を掲げる稲嶺進・新市長を誕生させたのだ。
 稲嶺氏はわが久志地域(二見以北)の出身であり、地域の痛みをよく知っている人でもある。
 名護市長選の翌日、平野博文官房長官が「市長選の結果を斟酌しない」と発言して、沖縄県民の猛憤激を買った。沖縄選出国会議員らの抗議で、それが「民意」であることをしぶしぶ認めたものの、自民党体質を根強く残す政権に不安は消えない。
 5 月末までに(移設先の)結論を出すと言っている鳩山首相に言いたい。あなたの言う「ゼロベース(あらゆる可能性)」の中でベストは、普天間飛行場を(移設せずに)なくすことだと。

 私たちは何かが欲しいと言っているわけではない。自然の恵みに支えられて、これまで通りの静かで心穏やかな暮らしを続けたいという、ごくささやかな、当たり前の願いを叶えたいだけだ。
 12 年間に溜まった膿を一掃し、やんばるの豊かな自然に依拠した市民本位の市政を築こうとする新市長とともに、私たちは新たな歴史を歩み出している。
瀬嵩の朝市
瀬嵩の朝市


(JAWAN通信 No.96 2010年3月15日発行から転載)

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