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東京湾の干潟・湿地の経済的価値
についての評価と測定

安田八十五 (環境政策学者・関東学院大学経済学部教授)

要旨:

 本研究では,自然干潟のもつ9つの機能(生物生産機能,水質浄化機能,気候緩和機能,大気浄化機能,渡り鳥の採餌・中継地機能,レクリエーション提供機能,環境学習・教育提供機能,文化・伝統継承機能,自然景観機能)を東京湾・盤洲干潟を事例に整理し,明確にした。
 一方,干潟の価値評価については,自然科学的評価と社会経済的評価が考えられるが,両評価は個別に行われることが多いことから,両評価の学際的統合化を試みる。さらに、東京湾の干潟・湿地の経済的価値についての評価と測定を、ことに千葉県木更津市沖の盤洲干潟を対象事例に実行し、干潟の保全のための政策分析と政策提言を行った。

1. 序論:干潟・湿地の価値の評価と測定

 地球上の生命を産み出す母胎であり,現在でも地球表面の3 分の2 以上を占める海洋は,地球環境問題や水産業などの視点からも重要性を有している。そのなかでも干潟(Tidal Flat) は,高い生物生産性に富み,地球をまたに翔けて渡りをするシギやチドリなどの渡り鳥の採餌・中継地等としても,極めて重要な位置を占めている。
 しかし、環境省の調査によると,1945 年に全国に8 万4065 haあった干潟面積は,1992 年には5 万1443 haに激減し,この約半世紀の間に干拓や工業用地造成等のために面積で3 万2662 ha,率で38.8% と約4 割の自然干潟が消失したことが示されている。しかし,干潟の価値評価については,自然科学的評価と社会経済的評価が考えられるが,両評価は個別に行われることが多く,両評価の学際的統合化が求められている。
 そこで,干潟という自然環境が抱える機能・価値について,市民生活とのかかわりを視野に入れながら,東京湾の盤洲干潟を事例に自然科学的および経済学を主とした社会科学的視点から明らかにするとともに,激減している自然干潟の第3 ミレニアムにおける保全政策に寄与することにある。

2. 干潟の価値評価の自然科学的方法

 本研究の対象である盤洲干潟をはじめとする干潟は,きわめて高い生物生産性に富み,ノリ・アサリの養殖場や潮干狩場,シギ・チドリ類などの渡り鳥の採餌・中継地となっているばかりでなく,海水(水質)の浄化や気温調整機能などを備え,人間や生物にとって重要な役割を果たしている。
 干潟は原則として1 日に2 回,平底が現れ一時的に陸地化する干出と,平底が海面下に沈む水没を繰り返している。潮の干満の差( 潮位差) は,干潟にとって本質的なものであり,緯度や地形によっても異なる。北日本や日本海側では大潮でも潮位差が30 ㎝程度しかないために大きな干潟はみられない。
 一方,太平洋側では,盤洲干潟でみられるように大潮時に潮位差が1.5 〜 2m にも達することから,広大な面積の干潟が存在する。日本各地の干潟は,場所によって規模や景観,底質,生息する動植物の種類などがさまざまである。干潟( 自然干潟) は,その地形や立地条件,底質の環境の特性などから大きく前浜干潟,河口干潟および潟湖干潟の三つのタイプに分類できる。その詳細は、表1 に示す。

3. 自然科学的視点から見た自然干潟の9つの機能

 自然環境は,水,大気,海洋,森林,湖沼,草原,地質( 土壌),地形などで構成されている。また,これらに生息するさまざまな動物,植物,微生物などもすべて自然環境の一部である。ところで,本研究の対象である盤洲干潟は,面積が1,400ha の自然干潟で,東京湾に現存する干潟の約80% を占めている。また, 最近各地で行われている干潟再生・復元(人工干潟造成)の際のモデル的な干潟ともなっている。とりわけ盤洲干潟の心臓部にあたる小櫃川河口干潟は,自然干潟,ヨシ原,塩水湿地,感潮性クリーク,池などの多様な環境からなり, 昔ながらの東京湾の原風景を留める唯一の場所となっている。また, 地球上でここにしか生息していないとされるキイロホソゴミムシという昆虫が発見されなど,学術上も貴重な干潟である。このため,盤洲干潟を事例に自然干潟のもつ機能・価値を明らかにすることは,盤洲干潟以外にも昭和初期まで東京都,神奈川県,千葉県側を問わず東京湾沿岸において広大に存在していた本来自然干潟が備えていた多様な機能・価値を考察することでもある。さらに,ほとんどの自然干潟を消失してしまった東京都と神奈川県側にとっては,わずかに残っている貴重な自然干潟の21世紀における保全・再生策などにも貢献するものであり,その意義は大きいものと考える。そこで盤洲干潟を事例に,自然干潟の生態系の持つ機能を主に自然科学的視点から分類してまとめたのが表2 である。

4. 社会科学(経済学)的視点からみた自然干潟の価値・機能とその特徴

 前節で自然科学的視点から検討した盤洲干潟の生態系が持っている9つの機能を,社会科学、ことに、経済学的視点から価値・機能とその特徴について分析する。 自然干潟を含めた自然環境は,経済理論のなかでどのように位置づけられるのであろうか。
 自然環境は公共財(public goods) といわれる。公共財の経済学的定義は,財やサービスの性質として非排除性(non-excludability) と非競合性(non-rivalness) とを併せ持つ財やサービスとされている。これらの公共財としての自然干潟の価値と機能を図に示したのが図 1 である。



 自然干潟を含めた自然環境の価値の分類にはまだ確定したものはなく,その価値を正しく評価することはそう簡単ではない。その理由は,表3 に示すとおり自然環境( 自然干潟) の価値を全く利用しなくても価値の発生する非利用価値(non use value) である遺産価値(bequest value) や代位価値(vicariousvalue),存在価値(existence value) が存在することにある。ところで,自然環境を含めた環境価値の分類方法については諸説があるが,本研究の対象である盤洲干潟を例にその価値を利用形態の観点から分類したものが表3 である。

5. 干潟の価値評価の自然科学的評価と社会経済的評価の学際的統合化

 環境汚染問題,廃棄物問題,生態系破壊問題などのいわゆる環境問題は,人間の経済活動と自然環境とのかかわりから発生する問題である。したがって,問題解決のためには,水,大気,海洋,自然干潟,森林,河川,湖沼などの現在起きている事態の正しい認識が何よりも重要である。このことから,環境問題はその原因が社会的なものであっても,一種の自然現象として現れることが多く,自然科学的知見・評価を抜きにして論ずることはできない。
 しかし一方で,自然環境の劣化や破壊は,主に人間の経済活動のもたらした結果であることはいうまでもない。また,環境の社会経済的評価は,第3 ミレニアムの社会経済構造を循環型の社会に変えていくための不可欠な課題でもある。したがって, 経済学を主とした社会科学的視点から自然環境と経済活動との相互関係について取り組むことが必要である。 このことは,自然干潟のもつ機能・価値についての評価・解明にあたっても自然科学的評価と社会経済的評価が必要であり,かつ両評価を有機的に結び付け学際的統合化を図ることの必要性を物語っている。このため,本節では盤洲干潟を事例に自然干潟のもつ機能・価値についての評価・解明にあたって,自然科学的評価と社会経済的評価の学際的統合化を試みるものである。
 盤洲干潟については自然科学の分野からはすでに多くの学術調査・研究等の蓄積がなされている。これに対して社会科学(経済学)の分野からの学術調査・研究は, 川村・安田等により, 環境価値評価手法の一つである仮想的市場評価法(CVM)によって,2000 年― 2005 年に行われた盤洲干潟の調査・研究があるのみで,自然科学分野の蓄積に比較すると,ほとんどなされていない。
 このことを盤洲干潟にあてはめて考えると,高い海水の水質浄化機能や大気浄化機能,レクリエーション提供機能,自然景観保全・提供機能などの9つの機能を持っている干潟であるが,多くの場合,それらの機能には社会経済的評価が与えられていないということである。
 これらのことを, 盤洲干潟を例にとり見てみよう。干潟はアサリやノリの養殖,稚魚の育成などの漁業資源の生産かつ供給地として,あるいは潮干狩や簀立などのレクレーションサイトとしての経済的機能をもつ限りにおいて,それは社会経済システムのなかに組みこまれ内部化されている。しかし,この他にも,干潟にはすでにみたとおり海水( 水質) 浄化機能,渡り鳥の採餌・中継地機能はもとより,自然景観保全・提供などのアメニティ機能などをもっているが,これらの機能は社会経済システムのなかに組みこまれておらず,内部化されていない。このことは開発等のため干潟が埋立ての対象となった場合に漁業者は漁業補償の対象になるのに対し,干潟の観察や散策等で干潟を利用している沿岸住民はその対象から除外されていることに顕著に現れている。このことは,海水( 水質)浄化機能,渡り鳥の採餌・中継地機能,自然景観保全・提供機能などのアメニティ機能等は補償の対象にならないことを示している。
 この点を具体的な例でみると,東京湾横断道路建設の際には漁業補償金として金田漁業協同組合に247 億円が日本道路公団から支払われ,漁協から組合員に分配されている。しかし,干潟のもつ海水( 水質) 浄化機能,渡り鳥の採餌・中継地機能,気候調整機能,大気浄化機能,環境学習・教育提供機能,自然景観保全・提供機能により,住民が直接・間接に恩恵を受けているにもかかわらず,これらの機能は補償の対象にならず補償金が支払われていないことからも明らかである。
 もともと環境を内部化するという作業が,環境の利用を社会経済制度あるいは社会経済システムの中に組み込むことにほかならず,この内部化が同時に環境に対する社会的評価を下すことになっている。今日における環境問題への取り組みは,社会経済システムの外部にあって,その活動を受けている環境を内部化することを意味している。
 内部化されているものとしては,生物生産機能があげられる。一部内部化されているものとしてレクリエーション提供機能があげられる。これに対して外部化されている(内部化されていない)ものとしては,海水( 水質)浄化機能,渡り鳥の採餌・中継地機能,気候緩和機能,大気浄化機能,環境学習・教育提供機能,文化・伝統継承機能,自然景観保全・提供機能があげられる。

6. 盤洲干潟の経済的価値の仮想的市場評価法による測定と評価

 環境が改善又は悪化されたときを仮想的に想定し, アンケート調査を利用して, 環境の経済的価値を評価する手法である仮想的市場評価法(CVM)を用いて, 東京湾・盤洲干潟の環境の経済価値を測定・評価したものである。具体的には, 盤洲干潟の地元である木更津市民を対象にCVM 調査を実施して, 自然干潟の環境価値を測定・評価した。表4 に盤洲干潟の環境の経済的価値の評価額の測定結果を示す。日本全体では、1 年間に約1672 億円の経済的価値と算定されている。これは、世界遺産に既に指定されている鹿児島県屋久島の約2500 億円(京大グループが試算)に匹敵する価値である。
 盤洲干潟は,東京湾最大の自然干潟であるとともに,循環型の生態系からなり持続可能な社会を求められている貴重な自然的かつ社会経済的環境資源であると言える。

主要参考文献:

1. 安田八十五・川村久幸(2003)、「巨大公共事業による干潟の環境保全への影響と評価―東京湾における横断道路( アクアライン)と盤洲干潟の事例研究―」、『公共事業と環境保全』、環境経済・政策学会年報、第8 号、PP.152-167, 平成15 年12 月25 日、東洋経済新報社発行 
2. 安田八十五・川村久幸(2004)、「干潟の価値評価に関する自然科学的接近と社会経済的接近の学際的統合化」、『経済系』、第219集、PP.12-30、平成16 年4 月、関東学院大学経済学会発行
3. 安田八十五・川村久幸(2004)、「東京湾の盤洲干潟に関する環境経済価値の測定と評価」、『経済系』、第220 集、PP.1-25、平成16 年7 月、関東学院大学経済学会発行 
4. 安田八十五(2011),『自然干潟と人工干潟はどう違うか―横浜市の人工砂浜「海の公園」と自然干潟「野島海岸」との比較調査研究等からの教訓―』、平成23年2月5日(土)13:30―16: 30、主催:三番瀬を守る連絡会特別講演 
5. 安田八十五(2011),「干潟・湿地の経済的価値について」、シンポジウム「日本の湿地を守ろう!」基調講演、2011 年5 月22 日(日)13:00 〜 16:30、 主催:日本湿地ネットワーク(JAWAN)・共催:小櫃川河口・盤洲干潟を守る連絡会

(JAWAN通信 No.100 2011年9月30日発行から転載)

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