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ラムサール条約COP11の年を迎えて

〜2011年はラムサール条約40周年〜

小林聡史 (釧路公立大学教授)

1. 2011年を振り返って

 これまで比較的長い間、日本人は高度な技術を制御し、自然を制御しようとしてきた。そしてそれらは制御できるものと思い込んできた。しかしながら、2011年、その思い込みは逆襲される。技術は時に制御できずに悲劇を生むことがあり、自然もまた制御できない側面を持っていることを思い知らされた。
 ここで日本人が踏みとどまり、エネルギー政策、国土計画、公共事業の在り方を軌道修正していくことが出来れば、そして世界にモデルを示すことが出来れば、日本人は行動によって世界を変えていくことが出来るのではないか。

2. ラムサール40周年

 2011年はラムサール条約にとって、40周年を迎えた節目の年でもあった。筆者は条約の歴史40年のちょうど真ん中、20周年目となる1991年からスイスにあるラムサール条約事務局において勤務を開始した。2年後に開催予定の第5回締約国会議(釧路会議)の準備を進めるためと、アジア・オセアニア地域で条約を促進することが主な業務であった。
 スイスの商業都市ジュネーブとローザンヌの中間に位置する、レマン湖畔の小さな町グランに事務局はあった。勤務する建物は『世界自然保護センター』と呼ばれ、1階のコーナーにラムサール条約事務局、2階はIUCN本部、3階にはWWFインターナショナルがあった。
 ラムサール条約事務局には6年勤めることになったのだが、その間に条約の「父」と呼ばれる人々に会う機会があった。1人目は元イラン政府狩猟鳥獣魚類局のイスカンダル氏。ヨーロッパの湿地を利用する水鳥の中には、地中海を越え、アフリカ大陸の湿地を利用する渡り鳥たちがいる。例えばドイツ、オランダ、デンマークにまたがる広大な干潟(ワッデン海)と、西アフリカのモーリタニアにあるバンク・ダルガン国立公園の干潟。ヨーロッパとアフリカを季節的に利用する水鳥に配慮して、国際的な湿地生息地のネットワーク確立を目指すことになったわけだ。しかし、世界で初めてとなる真のグローバル環境条約を生み出すために、あえてヨーロッパ以外の地で湿地条約を誕生させたいと考える人がいた。その道先案内役を務めたのがイラン政府のイスカンダル氏だった。
 1971年2月、イランのカスピ海沿岸の町、ラムサールにて湿地条約が誕生した。しかし当時の政権はパーレビ国王時代、その後の政変後、イスカンダル氏は長い間政治犯として囚われの身となっていたそうだ。
 ジュネーブのレマン湖畔、ホテルのベランダでイスカンダル氏は、長い間の捕囚にかかわらずかくしゃくとしており、条約の成長を心から喜んでくれた。「人と人のつながり、そして時にひとりの人間の執念が世界を変えてくれるのですよ。」顔には深いしわが刻まれているが、彼の目は涼しく、その言葉は力強く心に響くものだった。
 もうひとりはホフマン博士、南仏の景勝地カマルグ(ラムサール湿地)近くに「トゥ・ド・ヴァレ湿地研究所」を設立した。彼はWWFの創設者の一人でもあり、2011年にはスイスの新聞に、WWF誕生から60周年ということでホフマン博士のインタビュー記事が掲載されていた。そしてまた彼はラムサール条約の「父」のひとりでもある。ラムサール条約事務局の同僚たちとカマルグを訪れる機会があり、ホフマン博士が出迎えてくれた。彼もまた自然保護のために一生を捧げた人間だ。WWFを創り、ラムサール条約を創った彼に、「ラムサール条約は政府間条約だから、NGOの意見は後回しでいい」なんて言う奴がいたら、怒りまくること請け合いである。
 カマルグでは、1962年にヨーロッパの湿地に関する国際会議が開催され、「湿地保全のための国際条約を作るべきだ」という決議が採択された。それから10年をかけてラムサール条約が誕生したわけだが、この歴史的会議から、2012年は50周年目を迎えることになる。
 3人目はマシューズ教授だ。彼は1993年のラムサール条約釧路会議に至るラムサール条約の歴史を本にまとめた(日本語版タイトル『湿地に関するラムサール条約:その歴史と発展』)。彼は1996年のラムサールCOP6(オーストラリア、ブリスベン市)において条約25周年記念行事に参加していた。著者がマシューズ博士が苦労してまとめた、条約の歴史についての本を日本語に翻訳しているのをとても喜んでくれた。「どんなに言葉や文化が違えども、自然を守りたいと思う人々の気持ちは世界中大体一緒でしょう。また、苦労の中身も似たりよったりです。条約をそういう人たちの手助けになるよう活かしていってください。」

COP11開催地はブカレスト

3. ラムサール条約とIUCN

 ラムサール条約事務局は現在、新たに出来たIUCN本部ビルの一角を占めている。実は、ラムサール条約事務局の職員たちは、スイスの法律上はIUCN職員として扱われている。 また、現在のような形でラムサール条約の事務局が機能しだしたのは、著者が勤務を始めた1991年からのことであった。それまで条約の業務はIUCNの環境法専門家が事務を担当(彼は初代条約事務局長となる)、英国スリムブリッジにある国際水禽湿地調査局[現在の国際湿地保全連合の前身]の職員が技術部門担当(初代事務局次長を輩出)と、協力しながらとはいえスイスと英国に分かれて業務を実施していた。これではまずかろうと統合されたのが1991年からとなる。著者はスイス到着前に条約事務局で働く最初の日本人となることは承知していたが、スイスでの労働許可申請のためにIUCN人事課に行けと言われて、そこでIUCNにとっても最初の日本人職員となる、と言われたときには正直驚いた。
 さて、当初はさらにWWF職員とも同じビル内で働くことになったわけだが、どうも日本人として条約事務局の外では、あまり歓迎されているようには思えなかった。専門職スタッフの会合や、毎週水曜のフリーコーヒータイムの談話等でだんだん、ははあ、とわかってきた。バブル経済はじけたばかりとは言え、80年代末まで日本は経済力にものを言わせて、熱帯林破壊、象牙輸入、白保サンゴ礁の破壊等々と、まじめなWWF、IUCN専門スタッフにはまったく聞く耳を持たない困ったちゃんだったのである。
 そんな中、ラムサール条約事務局でも―それまで締約国会議はヨーロッパとカナダでしか開催したことがなかったが―それ以外の地域で初めて、アジアで最初のCOP、それを日本でやることに批判的な意見が聞こえてきていた。実際、日本では水鳥や湿地の保全どころか湿地破壊が国内外で顕著なので、COP5はボイコットすべきであるという主張も米国オーデュボン協会の会誌に掲載された。
 一方、ラムサール条約では1993年の釧路会議まで、常設委員会の議長を米国政府代表が務める予定であったが、米国は1992年の地球サミットに向けて誕生した「生物多様性条約」、「気候変動枠組み条約」へ前向きな姿勢を示せないでいた。
 日本批判の文書が目につくようになり、今から考えるとずいぶん乱暴だったかも知れないがIUCN事務総長に文書を出した。「日本を敵に回し続けることを前提にした文書を見るのですが、一度環境の味方にできないか考えてみてください。日本が経済成長のために環境を破壊し続ければ、他のアジアの国々は今後の経済成長に伴って真似をしかねません。しかし、もし日本人を説得し環境保全に積極的に関わるようにできれば、今度は他のアジアの国々もそれをモデルにするかも知れません。」
 IUCN事務総長から返事ももらったが、とにもかくにもラムサール条約釧路会議を成功させないことには何の説得力もない。

4. 湿地はみなつながっている

 〜つなげているのは水鳥だけではない〜
 ラムサール条約釧路会議(COP5)では、日本政府代表が北海道の千歳川放水路計画に対して、計画ルートが決定後環境アセスを実施、その内容を対外的にも公表すると表明した。また現JAWAN代表辻淳夫さんが、日本の湿地の現状について政府の公式プレゼンとは別に、日本国内の全NGOの意見を代表する形で干潟の問題を取り上げ、諌早、和白、藤前、三番瀬を取り上げた。また、日本政府として外務省担当者が、環境アセスに基づくケニアにおけるダム計画(第二期)工事着工見直しを発表した。
 こうして釧路会議は対外的に成功裏に終了した。しかしながら、日本国内では同月末に福岡市議会が博多湾の人工島建設に向けて、埋め立て同意案が可決するなど、成果を疑問視したくなるような動きまで登場している。
 釧路会議からほぼ10年かけて、2002年11月に藤前干潟がラムサール条約登録湿地に指定された。今年は指定10周年となる。釧路会議の翌年、当時のラムサール条約事務局次長を連れて、藤前干潟を訪れることが出来た。それが可能となったのは、やはり辻さんが壇上に立って干潟の保護を訴えたからだ。
 湿地に限らないが、自然を保護しようと立ち上がる人間は叩かれる、脅される、無力感に苛まれることもある。世界中で湿地を守ろうとする人々は、言語、文化、政治体制を越えて、皆同じ苦しみ悩みを抱えてきている。そんな人たちをつなげてくれる道具として、これからもラムサール条約を活用して欲しい。条約のワイズユースだ。
 2012年、少しでもよりよい未来の地球を目指して、ひとりでも多くの日本人が立ち上がって欲しい。

COP7会議で発言する辻淳夫氏
(JAWAN通信 No.101号 2012年1月31日発行から転載)

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