トップ ページに 戻る

播磨灘を守る会40年の活動の原点

青木敬介 (播磨灘を守る会代表)

 南方熊楠が、日本で初めて「エコロジィ」ということばを使ってから100年になる。
 彼は、熊野という多雨高湿の地に育ち、そこを自分のフィールドとして、粘菌を初めとする多様な生物を観察し続けた上、それら生物や鉱物、水と大地などの大きな連鎖・結びつき、そして強い相関性を見届けた。
  これは、私らが環境の問題を取りくみ考える上で、最も基本的で重要な視点である。そしてそれは、そっくり仏教の「縁起観」(正しくは縁起生起)に当てはまる。
  約137億年前、ビックバンによってこの宇宙ができ、さらにその宇宙の片隅に太陽を中心とした惑星群の内に、地球という生物の住む星が生まれた。
 もちろん、そこに至るまでの無限の時間、最初の生命が生まれるための無数の原因と条件、特に太陽と水と土が整わねばならなかった。そうして生まれた最初の生命(単細胞の植物プランクトンか?)から、各種のバクテリア、菌類、諸物群、甲殻類、脊椎動物、哺乳類、そして人類に至るまで、環境に応じて分化してきた。
  これは、時間的にも、空間的にも、物質循環と食物連鎖が、何十億年も続いてきたことを示しており、地球という星の環境が少しずつ変化しながら、それらを支えてきた。つまり、あらゆる物質と多様な生命が密接に関連しあってきたということである。無限に拡がる網の目のように、人類がまだ知らない生命も、素粒子のような目に見えない物質もきっちりつながりあっているというのが「縁起」(Pratitya-samutpada)である。そこでは、無数の原因や縁(条件)が揃わないと何物も生起しないし、逆に無数の条件の内の一つが欠けても、いのちも物質も滅び欠けるということである。
  たとえば、太陽という恒星が、少し大きくても小さくても、地球が生まれたかどうか判らないし、その地球が太陽から近すぎても遠すぎても、また地球自体がもっと小さくても大きくても、それを囲む大気の質も地球の自転の速さも違っただろうし、そこに水ができたかどうか判らない。
 今のような大気や水ができなければ、そこに生命が生まれようがない。また、植物性のいのちも生まれなかったから、大気中の酸素はもっと少PPなく、地球の保護膜たるオゾン層もできず、生物の陸上生活もうんと制限されたであろう。こうした太陽と地球の関係、バクテリア・粘菌から人類までのつながりを、釈迦は「縁起」としてとらえ、熊楠は「エコロジィ」と呼んだ。図示すれば、図Aのような物質循環になるだろう。

図A

 このような物質循環の相(すがた)が、最も端的かつ微妙に示されているのが数ある渚・干潟であり、各地の湿地である。無数の縁によってできた地球とそこに生まれ住む何千万種もの生命をごく一部の人間の、目先の欲望のために殺したり滅ぼしたりしてよいはずがない。ところが20世紀にはいって、人間は目先の我欲のために、戦争や環境破壊をやり、街を焼き、山林を壊し、川を堰きとめ、海を埋め立てる愚行を繰り返した。
 特に、瀬戸内海のような狭い閉鎖性海域でそれをやれば深刻な影響が現れるのは当然である。渚・干潟など浅海を、この50年の間に3万8千haも埋めて、自然海岸の35%(大阪湾は95%、播磨灘は86%)を壊してしまった。
その結果、渚・干潟に住んでいた40種類ものバクテリア、ゴカイなどと二枚貝類、大小のカニ類といったベントスを皆殺しにして、生物による海の浄化力をほとんど無くしてしまった。そのため、陸部から流れ込む汚染物質はストレートに沖合に出て、それらが分解する時、酸素を消費し、いたる処に貧酸素海域を拡げている。(図B)。

図B

播磨灘北部底層(海底上1m)における溶存酸素量の水平分布(mg/L)

 大阪湾北部、播磨灘北部、広島湾では、夏期の水温が20度を超える時は、無酸素を通りこして、海底から硫化水素が出ている処さえある。「青潮」である。
 瀬戸内海(特に播磨灘)破壊の歴史を、私たちは50余年にわたって見てきた。いや、はげしくその破壊に抵抗してきた。「赤潮訴訟」、「姫路LNG基地埋立反対訴訟」など裁判にも訴えたが、司法と行政は住民の声に耳をかさなかった。それどころか行政も大企業も、マスメディアを使った住民ダマシの手法は益々巧妙になった。
 瀬戸内海だけではない。多くの生命を滅ぼし、山も川も破壊する各省の官僚と大企業の動きは、インチキな数字を並べて無能な政治家をまるめこみ、益々悪辣になっている。
 各地に原発を乱造し、その事故を隠す。八ッ場を初め無用なダム工事を強行。諫早湾の遮断。不必要で無理な高速道路やリニアモーターカー路線の建設。どれもが、徹底した環境破壊と多くの生物たちの虐殺をともなう。
 地球の生物の中で最も新参者の人類に、このような暴虐が許されて良い筈がない。少しばかりの知識と技術に思い上がった人間が、自分たちの生きる基盤である地球までも破壊しようとしている。やってはいけない原子核分裂に手を染めて多数の生命を殺し、生物たちの遺伝子(DNA)にまで汚れた手を突っ込んで、自分だけの利をむさぼる姿は、背筋の寒くなる事態である。仏陀はこういう人間の姿を餓鬼と呼び、畜生と示す。
 今、環境の問題はグローバル経済を抜きにしては考えられないが、紙面は尽きた。私たち播磨灘を守る会40年の活動は、上述の「縁起」を原点に、地域に次々と起こってくる問題に取りくんでいる。

(JAWAN通信 No.101号 2012年1月31日発行から転載)

>> トップページ >> REPORT目次ページ