豊島住民の不屈の闘いに感動
〜環瀬戸内海会議が産廃不法投棄現場を視察〜
瀬戸内海沿岸の市民団体で構成する環瀬戸内海会議は2014年6月21、22日、瀬戸内海の豊島(てしま)で第25回総会と現地視察をおこなった。参加者は47人である。
視察地は産廃不法投棄事件(「豊島事件」)の現場である。不法投棄の全貌や長きにわたる住民運動を「廃棄物対策豊島住民会議」の砂川三男議長がくわしく話してくれた。参加者は不法投棄のすさまじさに衝撃を受けた。また、血のにじむような苦闘を続けた豊島住民の不屈の闘いに感動した。話を聞きながら涙する人もいた。
◇日本最大級の産廃不法投棄
事件の発端は1975年12月、豊島総合観光開発(株)が有害産業廃棄物処理許可申請を香川県に出したことである。事業者は、土砂採取や埋め立てなどをめぐり違法行為を繰り返していた。暴力事件も引き起こしていた。県が産廃処理を許可すると、自然環境や生活環境が破壊され、農漁業も打撃を受ける。そこで住民は、豊島の有権者のほぼ全員(1425人)から反対署名を集め、知事と県議会に提出した。
しかし、豊島を訪れた前川忠夫県知事(当時)はこう言い放った。
「(反対運動は)住民のエゴであり、事業者いじめである。豊島の海は青く、空気はきれいだが、住民の心は灰色だ」
この発言に反発した住民は1977年2月、「産業廃棄物持ち込み絶対反対豊島住民会議」を結成し、反対運動を繰り広げた。ところが翌年2月、県は「ミミズの養殖」として許可した。
住民が心配していたとおり、業者は膨大な量の産廃を不法に持ち込み続け、野焼きして埋め立てた。場所は豊島の西端の海沿いである。県は、操業停止を訴える住民の声を無視し、業者の違法行為に加担したのである。不法投棄は13年つづいた。1991年1月、兵庫県警の摘発によって業者が逮捕された。だが、投棄物は放置された。不法投棄物に汚染土壌を加えた量は90万トン余で、日本最大級といわれている。
◇世界最大の原状回復事業
住民は不法廃棄物の撤去を求め、県に対して公害調停を申し立てた。「もとの島にもどしてほしい」というのが住民の願いであった。ところが、原状回復を求める豊島住民にきびしい言葉も浴びせられた。「豊島の住民運動は根無し草」(香川県議会)、「香川の恥さらし」、「金を無心(むしん)しているだけ」などである。「ゴミの島」や「毒の島」という風評被害も発生した。
だが、豊島の住民たちはへこたれなかった。調停を成立させるためには、世論を味方につけることが不可欠である。豊島住民は心をひとつにし、県民の支援を得るための運動を必死の思いで繰り広げた。島ぐるみで悪戦苦闘をつづけた結果、2000年6月に公害調停が成立した。県知事は豊島住民に謝罪するとともに、不法投棄物の無害化撤去を約束した。
調停を成立させるまでに住民が起こした行動は7000回を超える。「県はだました責任を取れ」というノボリを手に毎日交代で県庁前に立った。世論と県民の支持を得るため、若者たちが県内5市38町の役場を歩いて回った。また、県下100カ所で豊島問題の座談会を開いた。その目的は、1000人の住民で100万人の県民をひとりずつ説得することであった。東京の銀座に廃棄物を持ち込み、デモ行進もした。1999年春の県議選では、人口1400人の豊島から「廃棄物対策豊島住民会議」の石井亨さんを擁立し、7340票を得て当選させた。
調停成立後、90万トン余の不法投棄物と汚染土壌を760億円かけて処理する事業が進められている。世界最大の原状回復事業である。
◇干潟も蘇りつつある
2001年、不法投棄現場の北海岸に遮水壁が打ち込まれた。北海岸はヘドロに覆われ、産廃臭が漂う「死の干潟」と化していた。遮水壁設置によって、それが劇的に変化したという。2004年には北海岸でスナガニが復活した。アマモ場の面積も広がった。北海岸の干潟は蘇りつつある。
豊島住民は汚染された土地を買い取り、原状回復事業を監視しつづけている。住民がこれまで負担した費用は1億6000万円におよぶ。豊島住民は、一人ひとりが行動を起こすことによって、自分たちが直面する問題を解決した。日本の民衆運動史に残る金字塔である。
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