トップ ページに 戻る
■鎌倉広町の森を守った運動を学ぶ

宅地の乱開発から里山の森を守る

日本湿地ネットワーク運営委員/環瀬戸内海会議 若槻武行

 東京近郊は数十年前まで雑木林と田んぼや畑が広がっていた。その山が削られ、谷は埋められて宅地化が進む。今も緑が根こそぎ抜かれ、急傾斜地までマンションが建ち、環境破壊は止まるところがない。
 ところが、鎌倉市西部の広町では30年近く運動し、60haの森を守った。そこで、JAWAN首都圏の仲間と共に訪ねてみた。

*住民の96%が開発に反対

 広町は江の島に近い住宅地だ。東京からはJR大船駅からモノレールで行く。なぜ、モノレールか? 鎌倉幕府があった市の中心部は周囲が山に囲まれ、前が海で攻めにくい所だが、起伏が多く、鉄道を敷くのは容易ではないからだろう。その山も宅地が広がっていたが、緑の森も残っていた。
 開発の動きがあったのは1973年だった。地域の主婦たちがそれを察知し、自治会で話し合った。「この森を守りたい」と開発反対の声。そこで自治会会員460世帯(当時)にアンケートを行なう。96%が開発反対だった。自治会は専門委員会を設置する。 

*「住民エゴ」の非難にも負けず

 住民たちはまず、反対署名を集めた。市の人口は17万人。最初の署名は6万筆、その後2回目に12万筆、3回目には22万筆と増加した。「鎌倉駅前に立った時、最初はどうやっていいかわからなかった」主婦たちが声をあげた。さらに一軒一軒回り、また他の団体にも協力を依頼した。
 市議会、市長、県などへの陳情も行う。当局に提出した陳情書や意見書、質問状などは実に70通もある。全市民などへの呼びかけ文書と共に保存されている。
 当初は「反対する住民も、元は森だった所に住んでいる。エゴだ」という声もあったが、市民の緑を守る運動で乗り越えて行く。市長選挙では環境保全派を当選させた。
 運動では「ニュース」の発行など、組織の内外向けの広報活動に力を入れてきた。他の地域の運動も調べて取り入れている。

*裁判ではなく、住民主体の運動で

 この運動のユニークな点は、裁判に頼らなかったこと。森林60haのうち40haは開発業者の所有だ。「市街化区域で、開発は合法的、裁判ではとても勝てない」と弁護士に言われた。負けたら運動は終わってしまう。そこで、弁護士もいっしょになって、地域ぐるみの住民運動として取り組むことになった。
 実際の運動の中心になったのは主婦だったことも強みだ。緑がある環境で、子育てなど日常生活をしたいという、切なる願いが強く、特定の宗教や政党に偏ることはなかった。お互いを認め合い尊重する運動ができたのだろう。
 運動参加者は皆素人だ。形に捕らわれない運動が組まれている。例えば組織体制。自治会役員は一般に一年交代のところが多い。運動が継続しない恐れがある。ここでは、運動を課題や地域ごとに専門的に担う組織が、必要に応じ作られた。それらをまとめる「鎌倉の自然を守る連合会」(以下、連合会)ができたのは、運動が始まって10年後の1984年だった。まず中心組織を作り、それが「指導する」という、従来型の組織とは違うようだ。だから、多くの住民が参加しやすい。

*トラストで集めたお金を呼び水に

 運動は試行錯誤だった。「陳情し行政に頼るだけで良いのか」「自分たちで業者の所有地を買い取ろう」「十分な金が集まらなくても、それを呼び水にして、行政を動かすことだ」。
 こうして、トラスト運動が始まる。2年で3000万円の目標を突破した。
 2002年、業者は開発を断念。鎌倉市と県と国が財政負担し、業者の土地を買い取った。連合会はトラスト運動で集めたお金で、市に3215万円、県に100万円を寄付した。かくして市民の森は守られ、2015年4月、「鎌倉広町緑地都市林開園の日」を迎える。
 連合会を含む各団体と市で「広町緑地で活動する市民団体と市との懇談会」を立ち上げた。さらに田、畑、森、散策路、自然観察などのボランティア団体や、「鎌倉広町の森市民の会」もでき、秋の収穫祭、蛍(ほたる)観察、散策会などの行事が盛んになる。森は市民の憩いの場として定着している。

(JAWAN通信 No.118 2017年2月28日発行から転載)

>> トップページ >> REPORT目次ページ