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民衆運動の多くは歴史に残らない

〜干潟保全運動を事例に〜

中山敏則

 民衆運動の多くは歴史に残らない。あるいは虚構化されたり、改ざんされたりする──。こうしたことはざらにある。干潟保全運動も例外ではない。東京湾の盤洲干潟、谷津干潟、三番瀬、そして名古屋の藤前干潟を具体的にあげて、民衆運動(埋め立て反対運動)の抹殺や歪曲などを書かせていただく。

東京湾の干潟

◆盤洲干潟は奇跡的に残ったのではない

 盤洲干潟(小櫃川河口干潟)は、東京湾の小櫃川河口に広がる国内最大規模の砂質自然干潟である。
 戦後の1950年代後半から80年代にかけて、東京湾の干潟はかたっぱしから埋め立てられた。1936年に136k㎡あった干潟は、1990年では10k㎡に減少した。10分の1以下に減ったのである。現在は、まとまった干潟は千葉県側の盤洲干潟と三番瀬に残るのみとなった。 千葉県は東京湾内湾の干潟や浅瀬をすべて埋め立てる計画を策定した。盤洲干潟も三番瀬も埋め立てる予定であった。しかし千葉では1971年以降、干潟にかかわる自然保護団体が次々と発足した。「東京湾をこれ以上埋め立てるな」「干潟を守ろう」を合言葉に、埋め立て反対運動を旺盛にくりひろげた。
 1972年8月、「東京湾の埋め立て中止と干潟の保全」請願を第68回国会に提出し、これが採択された。これによって盤洲干潟は埋め立て計画が中止になった。三番瀬は埋め立て計画が凍結された。盤洲干潟が残ったのはこうした運動の成果である。
 東京湾の干潟に関する書籍は数多く出版されている。だが、盤洲干潟の埋め立て反対運動にふれたものは皆無にちかい。
 たとえば加藤真著『日本の渚』(岩波新書、1999年)である。同書は盤洲干潟の自然の豊かさを紹介し、こう記している。
 《ここには、都会の喧騒から解放された河口の静けさと生物のざわめきが残っており、そこが東京湾の一画であることを忘れさせるような場所だ。》
 ところが、盤洲干潟が埋め立て反対運動によって残ったことはまったくふれない。盤洲干潟は「奇跡的に残っている」と記している。これは大まちがいである。盤洲干潟は奇跡的に残ったのではない。埋め立て反対の市民運動によって残ったのである。この本も民衆運動を歴史から消し去っている。

◆「ひとりで谷津干潟を守った」はウソ

 〜NHK「たったひとりの反乱」〜
 
 谷津干潟は習志野市の埋め立て地のなかにある。面積は約40haである。谷津干潟は大蔵省所管の国有地であった。そのため、公有水面埋立法では埋め立てることができなかった。周囲の埋め立てによって長方形の干潟として残った。
 その後、習志野市が谷津干潟を埋め立てる計画を打ちあげた。住宅用地などの造成が目的である。そこで、「千葉の干潟を守る会」や「千葉県野鳥の会」(当時は日本野鳥の会千葉支部)、袖ヶ浦団地住民を中心とする習志野市民などが共同で大規模な埋め立て反対運動をくりひろげた。
 袖ヶ浦団地は谷津干潟の近くにある。この団地では「埋立反対」のポスターが3000戸の窓に吊された。ポスターには埋め立て反対のシンボルとして「寄り目のハゲ坊主」が描かれた。「寄り目のハゲ坊主」は、1976年に千葉市でひらかれた第2回全国干潟シンポジウムのシンボルマークになった。

こうした運動の結果、習志野市は1984年に埋め立て計画を断念した。1993年、谷津干潟はラムサール条約湿地に指定された。干潟としては日本初のラムサール条約登録である。
 2009年12月8日、NHKテレビのシリーズ「たったひとりの反乱」が谷津干潟をとりあげた。タイトルは「ヘドロの干潟をよみがえらせろ」である。「谷津干潟をたったひとりで守った森田三郎氏の孤独な闘い」を描いた。
 ドラマのあらすじはこうである。
 《大量のゴミを一人で拾い続け、再生不能と言われた干潟をよみがえらせた男がいた。世論を動かし行政の埋め立て計画を撤回させた。10年にわたる孤独な闘いを描く》
 森田氏が谷津干潟の保全に大きな役割をはたしたことは事実である。しかし、「たったひとりで」とか「孤独な闘い」というのは、事実とまったくちがう。まっかなウソである。
 前述のように、「千葉の干潟を守る会」「千葉県野鳥の会」などの自然保護団体や市民団体、市民も谷津干潟保全に大きな貢献をした。そもそも、この干潟を「谷津干潟」と命名したのは「千葉の干潟を守る会」である。ドラマは、そのような自然保護団体や市民団体、市民の奮闘をまったく無視した。そればかりか、自然保護団体などは干潟の保全に消極的であったかのように描いた。
 さらに、谷津干潟にゴミを捨てたのはすべて習志野市民とし、市民が“悪者”であったかのように描いた。しかし、じっさいは、谷津干潟でいちばん多かったのは谷津遊園のゴミである。谷津遊園は谷津干潟の隣接地で営業していた大型レジャー施設である。2番目に多かったのは東京湾からの漂流ゴミである。一般市民が捨てるゴミは比較的少なかった。
 谷津干潟の保全運動にかかわった市民団体のメンバーは「滑稽なドラマ」などと言い、あきれかえった。運動にかかわった市民からもドラマに批判の声があがった。そこで、「千葉の干潟を守る会」のメンバーが中心となり、パンフレット『谷津干潟はこうして残った』を緊急に発行した。わたしもパンフの作成に深くかかわった。
 また、「千葉の干潟を守る会」などのホームページで事実をいくつも示し、ドラマに捏造や歪曲が多いことをきびしく批判した。そのためだと思う。シリーズ「たったひとりの反乱」の放送はそのすぐあとで打ち切りとなった。
 そもそも、たったひとりで埋め立てを止めることができるという発想がばかげている。「よみがえれ!有明訴訟」の弁護団長をつとめる馬奈木昭雄弁護士はこうのべている。
 《私は、たたかいには集団の力を結集させる必要があると確信しています。逆に、一人の原告・一人の弁護士でたたかうというのは、失礼を顧みずに言うと、「そんなたたかいはナンセンスの極み」「いまの時代、そんなたたかい方は冗談の域を超えて、犯罪に近い」と思っています。》(松橋骼i編著『弁護士馬奈木昭雄』合同出版)
 まったく同感である。
 脚本家のジェームス三木氏はドラマについてこうのべている。
 《いうまでもなくドラマは虚構であり、やらせであり、嘘である。(中略)つまらない部分を割愛し、興味深い部分だけを、センセーショナルに伝える。話を面白くするために、あるいは何らかの意図により、誇張や歪曲が行われる。少しずつ嘘が付け加えられ、やがてA地点で起きてもいないことを、創作して伝える。》(ジェームス三木『人間の正体』中経出版)
 「たったひとりの反乱」も、そのような意図がミエミエだった。視聴率を重視するドラマでは、民衆運動は「つまらない部分」として省略される。だがドキュメンタリードラマはちがう。事実を歪曲するのならドキュメンタリードラマとすべきではない。

◆三番瀬を守った運動を無視

 〜三番瀬環境学習館〜
 
 三番瀬は千葉県の船橋・市川両市の地先に広がる約1800haの干潟と浅瀬である。
 1993年3月、千葉県は三番瀬の新たな埋め立て計画を発表した。三番瀬保全団体は「これ以上埋めるな」という運動をはじめた。署名を30万集めるなど、埋め立て反対の世論を盛りあげた。
 2001年春の県知事選では三番瀬埋め立てが最大の争点になった。朝日、読売、毎日の新聞各紙が選挙中におこなった県民世論調査では、いずれも「埋め立て反対」が過半数を占めた。これをみた堂本暁子候補は、選挙戦の途中で三番瀬埋め立て計画の白紙撤回を唯一の公約に掲げて当選した。堂本知事は同年9月、三番瀬埋め立て計画を白紙撤回した。これによって三番瀬は残ることになった。
 昨年7月1日、「ふなばし三番瀬環境学習館」がオープンした。船橋市が三番瀬海浜公園のなかに新設したものである。「知る」「考える」「学ぶ」の3つのゾーンで構成されている。三番瀬を一望できる展望デッキも新設された。総事業費は22億5700万円である。
 問題は環境学習館の展示内容である。「三番瀬のあゆみ」では、埋め立て反対運動によって三番瀬が残ったことはまったくふれていない。三番瀬の干潟をすべて埋めてしまう計画があったことも示されていない。
 三番瀬保全団体が埋め立て反対の署名を海浜公園前の砂浜で集めるさい、船橋市はそのとりくみを妨害した。「三番瀬の文字が入ったのぼり旗などの持ちこみは禁止する」と言った。また、小学校の先生が生徒を引率して三番瀬を見学するさい、市の教育長は「三番瀬の名称は使うな」と指示した。船橋市は三番瀬の名称をいっさい使わなかった。また、使わせようとしなかった。
 ところが2001年9月に埋め立てが中止になったあとは、県も船橋市も三番瀬という名称を積極的に使うようになった。船橋市は、三番瀬を市の観光の目玉のひとつとして位置づけるようになった。百八十度の転換である。
 船橋市は三番瀬の保全や環境学習に力をいれるようになった。環境学習館や展望デッキも新設した。三番瀬の利用ルールも制定してくれた。これらについては高く評価したい。しかし、三番瀬を残した市民運動を「三番瀬のあゆみ」から抹殺することは容認できない。

写真5-4
ふなばし三番瀬環境学習館

◆藤前干潟の埋め立て中止をめぐって

 昨年、『誰も書けなかった東京都政の真実』という本がイースト・プレスから出版された。著者はジャーナリストの鈴木哲夫氏である。
 この本を読んでわが目を疑った。名古屋の藤前干潟の埋め立て中止に関する記述にである。当時衆議院議員だった河村たかし氏(現・名古屋市長)が環境庁を動かして埋め立てを中止させた、と書いてある。同書はこう記している。
 《(河村氏が)使った手は中央省庁を動かすことだった。環境庁(現・環境省)に水面下で強力に働きかけ、同庁が環境保護の視点からさまざまな調査をするように仕向けて、名古屋市に計画を断念させる手法だ。これが奏功して市は計画を白紙撤回した。》
 河村氏が環境庁を動かしたから埋め立てが中止になったという記述になっている。
 しかし、藤前干潟の埋め立て(ゴミ捨て場を目的とした人工干潟造成)を中止させた原動力は「藤前干潟を守る会」などによる市民運動である。同書は、「守る会」などの運動についてはいっさいふれていない。埋め立て反対運動を牽引した辻淳夫さんのこともである。
 辻淳夫著『ちどりの叫び、しぎの夢』(東銀座出版社)によると、藤前干潟の埋め立てを中止させた原動力はこんな運動であった。
 1987年、周辺地域の自然保護11団体が参加する「名古屋港の干潟を守る連絡会」が結成された。連絡会はさまざまなとりくみをくりひろげた。わかりやすいパンフレットの作成、烏の扮装をして街中を歩く「鳥たちの大行進」、子どもたちにも親しまれる絵入りの署名用紙などである。これらは運動を広げる大きな力になった。
 藤前干潟の保存を求める署名は10万人を超えた。署名は、多くの人に藤前干潟のことを知らせ、ゴミ問題を考えてもらうことにつながった。署名集めに協力した人は、参加団体以外に1000人を超えた。そして1999年、環境庁が埋め立てに否定的見解を示したため、名古屋市は藤前干潟の埋め立てを断念した。
 環境庁が藤前干潟の埋め立てを否定した背景には、1997年4月14日の諫早湾閉め切りがある。「ギロチン」と呼ばれた閉め切りのあと、「干潟を守れ」の声が全国で高まった。このような世論の高まりが環境庁を動かしたのである。
 四国新聞社編『新瀬戸内海論 連鎖の崩壊』(四国新聞社)はこう書いている。
 
 《(環境庁は)庁内の意思統一を図るとともに、幹部を名古屋に派遣、計画の変更を求め続けた。さらに人工干潟の有効性を検討するプロジェクトチームを緊急に編成、埋め立て認可申請前の12月半ば、市が環境保全策の目玉に掲げていた人工干潟に否定的な見解を提示した。結局、これが計画にとどめを刺した。
 公有水面埋め立て法上の手続きでは、環境庁が意見を求められるのは認可申請後。「藤前はこれまでにない異例のケース」(環境影響審査室)の裏には、長崎県諫早湾の干拓事業を止められなかったことに対する無念さが見え隠れする。
 「諫早の閉め切り後、藤前を二の舞いにするなという声が全国から寄せられてきた」(辻代表)というように、干潟保全を求める動きは急速に高まっている。藤前の阻止は、同庁が存在意義をアピールするために臨んだ“背水の陣”でもあった。》
 
 核心をついた指摘である。
 当時、藤前干潟と三番瀬の埋め立て反対運動は連携をつよめていた。わたしも藤前干潟をめぐる動きを注視していた。環境庁が藤前干潟の埋め立てを否定した背景に「干潟を守れ」という市民運動と世論の高まりがあったことはまちがいない。ひとりの政治家が環境庁を動かしたから埋め立てが中止になったという見方は一面的である。
 
                *
 
 盤洲干潟や谷津干潟、三番瀬、藤前干潟は、おおぜいの人たちの多年にわたる運動によって守られた。しかし、埋め立て中止から何年もたつと、そうした運動は歴史から抹殺されたり、歪曲されたりする。これは民衆運動の多くにあてはまる。
 そういう意味で、運動にかかわる人たちが運動の記録をきちんと残すことが求められている。運動の側にスポークスマンの役割をはたす人物も必要である。わたしはその役割を自身に課している。

(JAWAN通信 No.122 2018年2月20日発行から転載)

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