震災後の蒲生干潟の現状を見つめ、
あるべき姿を探る
─蒲生を守る会活動50年記念シンポジウム─
「震災後の蒲(がも)生(う)干潟の現状を見つめ、あるべき姿を探そう!」と銘打ったシンポジウムが2月9日、仙台市市民活動サポートセンターで開かれました。参加者は会場いっぱいの140人。蒲生干潟は仙台市の七北田川(ななきたがわ)河口近くに広がる潟湖干潟です。「蒲生を守る会」は干潟を守るためにさまざまな活動をつづけています。守る会はこの4月で50周年を迎えます。50年記念シンポにおける発表の要旨を紹介します。
*今後の課題を考える場に
蒲生を守る会 佐場野 裕さん蒲生を守る会が活動をはじめたのは1970年4月だ。50年前、仙台市の東の海岸、七北田川の北側で仙台港の建設がはじまった。当初の計画は蒲生干潟の全体を埋め立てるものだった。それに反対する仙台市民の有志が蒲生を守る会を結成し、埋め立て反対運動にとりくんだ。その結果、干潟が残ることになった。もとの干潟とくらべると3分の1に減少したが、現在の干潟を残すことができた。
守る会は残された干潟の環境保全活動を半世紀にわたってつづけてきた。この間、さまざまなことがあった。最大の衝撃的な出来事は、2011年3月11日の東日本大震災にともなう巨大津波の襲来である。
きょうのシンポジウムのタイトルは、「蒲生干潟の現在(いま) 2011-2019年」である。来月、大震災から9年を迎える。この9年間に蒲生干潟がどうなったかを見すえ、これからどうしたらいいのかを考える場にしたい。
*地形の変化と復旧工事計画の変遷
蒲生を守る会 中嶋順一さん2011年3月11日の大地震にともなう大津波によって蒲生干潟は大きな影響をうけた。震災直後、干潟海側の砂浜はすべて津波でもっていかれてしまい、完全に失われた。蒲生干潟はもう回復しないのではないか、という報道もされた。しかし、震災から1か月後の4月には砂がつきはじめた。7月にはもとの状態に近づき、底生動物も目立つようになった。
ところが、災害復旧工事による導流堤や堤防(巨大防潮堤)の建設によって干潟周辺の環境は大きな影響をうけている。
当初計画では、大きな堤防が干潟の一部を縦断することになっていた。わたしたちは計画の変更を求めた。何度かやりとりしたあと、堤防を内陸側へ十数メートルから最大34メートル程度移動することになった。
干潟の縦断は阻止することができた。それでも蒲生干潟全体の生態系への影響ははかりしれない。わたしたちが望むものとはほど遠い。わたしたちは内陸側への大幅な移動を訴えつづけたが、それは認められなかった。
堤防付近の用地は県がすべて買いとった。仙台市も、土地区画整理事業のために干潟に近い土地を買いとった。それならば堤防の大幅な移動も可能だったのではないかと思う。だがそこには仙台市の土地区画整理の思想が横たわっている。仙台市は、蒲生地区の沿岸部を人の住むことのできない災害危険区域に指定した。市は、70年代から温めていた仙台新港計画の実現に向け、住民を追いだして商工業用地とするために大規模な土地区画整理事業をおこなった。用地が狭くなるために堤防をこれ以上内陸側へ移動させることはできないということを当時の宮城県の担当者から聞かされた。
震災後数年が過ぎると、生態系の回復はめざましいものになった。干潟周辺ではアシ原が広がりはじめた。後背地ではヨシを中心とした植生が広がりをみせる。春にはアオジがさえずる。初夏からはオオヨシキリの鳴き声が盛んになる。響きのあるコヨシキリのさえずりも定番となった。秋の渡りの時期にはオオセッカの鳴き声も聞かれる。陸鳥にとっても貴重な環境となっている。内陸側へ移動した堤防は、そうした湿地のすぐ後ろにつくられる。
生物多様性がおりなす生態系サービスは、わたしたちの未来にたいしてたいへん重要である。それを社会として考えなくてはならない時期にさしかかっている。本来、行政はその点を考慮しなければならない立場にある。それができる未来が訪れることを願い、手をつくさねば、と思う。
*底生動物の生息状況と干潟生態系の現状
みちのくベントス研究所所長 鈴木孝男さんみちのくベントス研究所は、東北地方を中心に全国各地の干潟の生きものを調べている。東北の太平洋側は震災によってダメージをうけた干潟がたくさんある。そのため、震災影響調査をつづけている。蒲生干潟のベントス(底生動物)も調べている。
蒲生干潟は震災によって地形が大きく変化した。干潟の奥にあったラグーンの海側は砂で埋められた。ヨシ原はほとんど失われ、大部分が砂質干潟になった。
蒲生干潟は、人為の影響をさまざまにうける環境であった。だが、渡り鳥が多く飛来するところとして知られており、市民の憩いの場として親しまれていた。
震災前の干潟では、汽水域を代表するカワゴカイ類、イトゴカイ類とイソシジミが多産する。ヨシ原にはアシハラガニやフトヘタナリが棲む。このように、多くの希少種を含む多種類の底生動物が生息していた。
ところが、東日本大震災にともなう津波で太平洋と潟湖を隔てていた砂浜が破壊された。潟湖は砂で埋まり、干潟の砂泥底は津波で持ち去られた。ヨシ原はほぼ消失した。
一方、津波のおかげで底質環境は改善された。震災前は、強い硫化水素臭のする底泥が多くみられた。震災によって有機汚泥が流失し、砂が堆積した。全域で砂質化・均質化がみられるようになった。硫化物含量も著しく低下した。津波によりヘドロが流失し、底質環境は改善した。震災後3年を経て潟の奥に泥が堆積しはじめたが、良好な底質環境を維持している。
蒲生干潟では、震災直前の調査で79種類の底生動物を確認した。震災直後は60種類に減った。震災から9年を過ぎ、多くの種が回復してきている。しかし、まだ密度が低くて不安定な状態にある。
震災後、2019年までに確認された底生動物の総種数は170種ほどだ。そのうち30種は絶滅危惧種である。
蒲生干潟は、宮城県における重要な干潟のひとつである。仙台海浜鳥獣保護区蒲生特別保護地区、仙台湾海浜県自然環境保全地域、そして環境省の「日本の重要湿地」に選ばれている。
蒲生干潟は、大都市の近郊にありながら多くの生きものを育む自然豊かな海辺の景観を残している。それを活かした復旧が望まれる。蒲生干潟は「杜の都」の象徴的な自然環境でもある。市民の憩いの場や環境教育の場としての利活用が期待される。
東日本大震災での津波の影響は干潟にすむ底生動物たちにとって一過的なものであり、彼らの回復は順調なように見える。しかし現在、被災した沿岸域一帯で復旧工事が実施されている。これは二次的被害をもたらすことが危惧される。
*鳥類の生息状況
蒲生を守る会 上村左知子さん蒲生を守る会は、会が発足した翌年の1971年から蒲生干潟で「月例蒲生鳥類生息調査」(略称:センサス)をつづけている。
2019年8月までのセンサスで記録された鳥種は212種である。センサス以外の観察で認められた記録を含めると、蒲生干潟で記録された鳥種は280種にのぼる。これは、日本国内で記録された542種(日本産鳥類目録・第6版、2000)の51.7%にあたる。鳥獣保護区蒲生特別保護地区の面積が48haという限られた区域であることを考えると、280種はかなり多い種数といえる。蒲生干潟は、汽水域の干潟という独特の湿地環境のほかに多様な環境要素が存在する。水鳥ばかりでなくさまざまな陸鳥も飛来するため、「渡り鳥の楽園」と呼ばれている。
1970年以降、仙台港建設による環境の変化にともなって個体数は激減した。が、2001~2010年の10年間はほぼ変化が見られない。2001~2010年に記録された種数の年平均は102種である。
2011年の大震災のあとは、種数、個体数ともに震災前より減少している。震災前は、センサスで記録される種数の月平均は35~50種で推移していたが、震災直後の2011年は21~38種である。その後の2~3年間は、干潟の底生動物や干潟周辺の植生の回復にともない、種数、個体数とも回復傾向が見られる。種数は、2012年には84%に回復し、2013年にはほぼ震災前の種数に回復した。2014~2015年は、震災前とほぼ同様の月ごとの変化を示している。しかし2016年以降は減少に転じた。2018~2019年は震災前の58%となり、震災直後の減少した水準をも下回っている。
コクガンは、その名のとおり漆黒のガンである。首にある白いリングのワンポイントと下面の白色部とのコントラストがすばらしい。冬の蒲生海岸のシンボルともいえる存在だ。国の天然記念物にも指定されている。2018年から2019年にかけての冬期は、最大で115羽が蒲生干潟に飛来した。
今後、七北田川河口左岸の防潮堤工事はコクガンが利用している川岸に最も近い場所にさしかかる。生息環境のわずかな異変に敏感なコクガンがこれからも安心して利用できる環境を維持していくためには、工事の進め方に十分な配慮が求められる。
*火力発電所建設問題
仙台港の石炭火力発電所建設問題を考える会代表、MELON理事長長谷川公一さん
東日本大震災以降、宮城県には7つの火力発電所の新設計画がある。そのうち2つはすでに操業を開始している。7つのうち3つは仙台港にある。仙台高松発電所、仙台PS(パワーステーション)、レノバ社の輸入木質バイオマス発電所である。仙台PSは操業を開始している。
なぜ仙台港に火力発電所が3つも新設されるのか。福島原発事故があって、2016年4月1日から電力の小売自由化がはじまった。
福島原発事故によって東京電力は事実上倒産状態にある。それを政府が生かしている。関西電力は、体力の弱まった首都圏に電力を売りたいとしている。仙台高松発電所も、そもそもは四国電力と住友商事の合同プロジェクトだった。
西日本からは100万kWしか東日本に融通できないようになっている。東日本は50Hz、西日本は60Hzと、周波数が分かれているからだ。そのため、四国電力などは仙台に発電所をつくれば首都圏に電力を売れると考えた。
さらに仙台港の場合は、▽水深が深いので、石炭や輸入木質バイオマスを陸揚げできる。▽工業用水を確保できる。▽送電線が空いている。▽大震災の被災地なので地価が安い。▽県や仙台市が企業誘致に熱心。▽津波によって1km圏内は住宅がなくなった──などの利点がある。
仙台港に火力発電所をつくろうとしている会社は、港と空き地と送電線しか見ていない。かつては、そこに人びとの暮らしがあった。いまも蒲生干潟がある。そういうことは見ない。仙台PSの言い分は、「環境基準はクリアしている。法令には違反していない」である。
石炭火力発電所などによる蒲生干潟への影響としては、(1)大気汚染による生態系への悪影響のおそれ、(2)煙突から排出される煤塵に揮発性の水銀が含まれるため、水銀汚染の危険性──がある。
仙台PSの操業差し止めを求める訴訟が2017年9月17日の提訴からはじまった。今年の3月31日に結審予定である。
*地域住民が抱える諸問題
蒲生のまちづくりを考える会 事務局長 千葉永一さん2011年11月11日、「蒲生和田地区震災復興を考える有志の会」が、現地に住みつづけたいという住民の意向を陳情書にまとめて提出した。近隣を含む140世帯の署名を添えてである。陳情書では、海側の道路かさ上げ、仙台港方面からの流水を抑える堤防設置、避難ビルの建設などを求めた。
しかし同年12月16日に仙台市災害危険区域条例が改正され、蒲生地区の沿岸部は災害危険区域に指定された。その結果、新築して住みつづけることはできなくなった。指定前に解体すれば解体費用は負担しなくてもいいが、指定後に解体すれば解体費用が自己負担になる。そのため、多数のかたが家の解体をよぎなくされた。その人たちは集団移転をするしか道がないということになった。
蒲生4地区町内会の役員たちは、行政と打ち合わせをひんぱんにおこなった。しかし行政は住民の話をなかなか聞いてくれない。2011年3月29日に市が公表した公文書には「住民の意向にかかわらず集団移転」ということがはっきり書かれている。
その後、「北蒲生のまちづくりを考える会」に名前を変えた。さらに「蒲生のまちづくりを考える会」に変更し、現在にいたっている。
この会のスタート時の構成メンバーは、仙台市民、都市計画プランナー、地元住民、町内会役員などである。その後、県議や市議、ジャーナリスト、蒲生を守る会なども加わった。
2014年1月22日、蒲生を守る会などといっしょに「蒲生干潟の自然を守ることを願う要望書」を県に提出した。2015年4月6日は、「蒲生干潟の自然再生及び当地の歴史遺産の活用と共存する真の復興を求める要望書」を、蒲生を守る会と連名で復興大臣、環境大臣、国交大臣、農水大臣あてに提出した。このように要望書や意見書を提出したり、行政の住民説明会で発言したり、国会議員と懇談したりしている。
*博多湾の和白干潟から、干潟を守る思い
蒲和白干潟を守る会 代表 山本廣子さん1978年、和白干潟を含む博多湾東部海域の全面埋め立て計画を福岡市が発表した。1987年、わたしは「和白干潟を埋め立てないで」という請願書を300人の署名を添えて福岡市議会に提出した。これが採択されて和白干潟は残されることになった。
翌1988年、「和白干潟を守る会」を発足させた。その後32年にわたって和白干潟の保全活動を仲間といっしょにつづけてきた。主な活動は、自然の豊かさを伝える観察会、和白干潟をきれいにするクリーン作戦、干潟の鳥や水質を調べる調査活動である。この3つが活動の柱になっている。毎年秋には自然観察会を中心とした「和白干潟まつり」を開き、地元の人とふれあっている。
和白干潟は自然海岸のある干潟として「日本の里100選」に選ばれている。渡り鳥の渡りルートになっていて、国際的にも重要な湿地である。クロツラヘラサギやツクシガモ、ミヤコドリなどの希少な鳥たちも訪れる。
1988年に和白干潟沖に401haの人工島が計画され、1994年に人工島埋め立て工事が着工された。現在も建設中である。人工島の建設によって海水の流れがふさがれたかたちになった。和白干潟は海水の交換が遅くなり、停滞水域になった。海水の富栄養化が進んだため、アオサが大量発生して干潟に堆積して腐り、干潟のヘドロ化が進んでいる。
わたしたちは和白干潟のラムサール条約登録をめざし、署名活動や、福岡市と環境省にたいする働きかけをつづけている。
*蒲生をめぐる諸問題と課題
蒲生を守る会 熊谷佳二さん復旧事業では環境アセスメントなどは不要ということで、大規模な工事が急速に進んでいる。復興という名の大規模な自然破壊が進んでいる。
干潟などの湿地や海岸の動植物は、津波や高潮、台風という自然の撹乱にたいしては比較的強い。もともとそういう環境のもとで進化してきたからだ。自然の撹乱をうけても、人間の予想をこえるスピードで回復する。
自然の撹乱に追い打ちをかけてダメにしていくのが人為的撹乱だ。復興事業による建造物などである。湿地や動植物などは人為的撹乱にたいする抵抗力はほとんどもっていない。
人為的撹乱でダメになるのは自然だけではない。蒲生は歴史のある町だった。そういう歴史を封じこめてしまう。地域のコミュニティーも含めて、町そのものがなくなってしまう。地域の自然や歴史や文化も破壊されていく。干潟そのものは手がつけられなくても、後背地の自然がどんどんなくなっていく。それによって多大な悪影響が干潟にもおよぶ。
自然は人間生活に多大な恩恵をもたらしている。これを生態系サービスという。干潟の生態系サービスはいろいろある。鳥だけではない。干潟はわたしたち人間にとっても大事な役割をはたしている場所だ。
干潟はこんな役割もはたしている。昨年の台風19号では蒲生地区でも浸水被害が発生した。そのさい、蒲生干潟は氾濫原、遊水地として機能した。周辺の浸水を防ぐ役割をはたした。干潟は遊水地としても重要である。
わたしたちの働きかけによって、蒲生干潟の一部を縦断する予定だった堤防(防潮堤)は内陸側に数十メートル移動した。移動によって隙間ができた。この隙間の活用も大事になる。干潟と堤防のあいだの緩衝地をどうしたらいいかを考えることが必要だ。緩衝地でサギの群れが休んだりエサを捕ったりしている。魚もいる。カモも入ってくる。
仙台市復興計画には蒲生干潟を残すと書いてある。具体的にどういうことを考えているのか、と聞いたらこんな回答だった。「蒲生干潟の自然環境保全は宮城県が主体となっているが、土地区画整理事業は市が蒲生干潟の環境に配慮しながら進めている」。具体的な計画や考えはなにもない。
中断している蒲生干潟自然再生協議会を早期に再開させることも重要だ。協議会は、行政、学識経験者、わたしたちNGO、それと地元住民の官学民が一体となって考えようということ
で、2010年12月に保全計画を作成した。それを実行しようというときに津波が襲来した。しかし、わたしたちの思いや連携は震災後も強い。ぜひこれを進めていきたいと考えている。
蒲生の自然・歴史と共存するまちづくりや真の復興を実現するためにみんなで考え、話しあいましょう。
>> トップページ >> REPORT目次ページ