千葉の干潟を守る会創立50周年
私たちの思い
◆運動を次代につなげたい
千葉市幕張海岸の新しい我が家に転居したのは1972年秋だった。当時、わが新居の眼前の広大な幕張海岸は、翌春には潮干狩り客でいっぱいだった。
やがて心配だった湾岸道路計画が迫ってきた。そこで近所の人たちと共に「湾岸道路を考える会」を立ち上げ、路線変更を訴える運動を始めた。そんな折、郵便受けの中に「千葉の干潟を守る会」の1枚のビラを見つけ、会の大浜清代表宅を訪れた。例会に集まっていたのは学生など若い人がほとんどだ。そのエネルギーの中で、船橋から幕張、稲毛西小中台までつなぐ連絡会をつくり、湾岸道路計画に反対した。
あれから50年近く。谷津干潟はラムサール条約登録地になった。また湾岸道路は路線変更された。だが、三番瀬のラムサール条約登録はまだ実現せず、今も第二湾岸道路建設構想が脅威となっている。
これまで「守る会」の活動を担ってきた私たちは皆、高齢者となった。でもあきらめず、運動を次代につなげる方法を考え続けたい、と考えている。
◆干潟は私の大学です
私は東京の浅草で生まれた。親戚もみな下町ばかりで田舎がない。田舎のある人が羨ましかった。
習志野市の袖ヶ浦に引っ越したさい、すぐ家の前は海(東京湾)だった。防波堤に立つと富士山が見える。この風景を子供たちにつなげたいと思った。
5月のある日、家の前で自然観察会が開かれた。「海はみんなのもの。埋め立てないで」。この大学生の声にハッとさせられ、「千葉の干潟を守る会」に入った。運動をはじめるのが遅かったせいか、家の前の海は埋め立てられた。だが「心までは埋め立てさせないぞ」とキザな言葉を吐いた。
その後、埋め立て反対運動によって谷津干潟は残すことができた。1993年、谷津干潟はラムサール条約湿地に登録された。そのとき、なんで東京湾全体が登録されないのか、と思った。
干潟はいろいろなことを教えてくれる。考えさせてもくれる。干潟を守る会の人たちから教わることも多い。卒業のない干潟は私の大学です。
◆「自然教育園」構想の実現・定着は活動継続の成果
落選回数が増えて当選率が上がった直後に“潮干狩りができる”袖ヶ浦団地(習志野市)に入居できた。当時は潮干狩体験の余裕がなく、平日昼間の風景を見ない千葉都民だった。
4年後、更なる埋め立て事業開始で潮干狩りは今年が最後と聞き、ならばと干潟へ出たのが始まりで、偶然は必然の連鎖となった。
団地集会所での、干潟を守る会起ち上げ直後の集会に顔を出し、大浜清さんらの熱い思いに納得した。その場で入会し、「寄り目のハゲ坊主」ポスターを窓に掲げた。
活動は休日のみだった。水鳥や海の生きもの観察会や埋め立て反対集会に参加。やがてチラシや会報印刷などを手伝うようになり、定年後は会報発行が活動の中心になった。
すべてが望んだ形ではなかったにしても、谷津遊園前面の干潟を「谷津干潟」の呼称とともに「ラムサール登録湿地」として残せたこと、「自然教育園」構想が「観察センター」として実現し、定着していることなど、仲間と共に関わってきた50年。微力ながら継続の結果と密かに自負している。
◆継続は力なり
私は1971年に千葉の干潟を守る会に入会し、50年間いろいろと活動してきました。
習志野市(袖ヶ浦団地)地先の埋め立て反対運動から始まった千葉の干潟を守る会の運動は、埋め立てから残った干潟(50ha、旧大蔵省水面、現谷津干潟)の保全(自然教育園)、湾岸道路、東京湾フェニックス計画、東京湾横断道路、三番瀬埋め立て計画と、切れ目なしに運動が続いてきました。
<継続は力なり> この50年の運動継続の元は、大浜清さんを中心に集まる週1回(後に月に2回)の会議の力が大きいと思います。また、会の中心として活動してきた大浜清・石川敏雄さんの理論と、それを実践する若者たちがいたため、と思います。
干潟の鳥の保護活動から市民を巻き込んだ市民運動として、今日まで続いています。
<干潟は地球の宝> 結成から50年、当時21歳だった私も71歳になりました。ほかの幹事も80代、90代となり、会を維持するのも大変な状況ですが、「干潟は地球の宝」を広めるため、これからも干潟を守る会の活動を続けていきます。